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文化の力〜2000年代まではミラージュ(幻影)か?
命を張った芸術に、プロデューサーも命を張った時代。
演出家の小池博史さんがつい最近にブラジルで創作、公演を成し遂げたばかりの「Saudage in the Mirage」の映像を拝見して(残念ながらブラジル現地では見ることが叶わなかった)、既視感に襲われた。
この感じ…
1990年代や2000年代まで、こういう景色が、日本にも見られた、と思ったのだ。
この作品はすごい!
という、ただ純粋にそれだけの理由で、世界も、日本のプロダクションも、我先に見せたい!と熱意を露わにした時代があった。
小池氏がブラジルで発表したSaudage in the Mirageは、観賞者目線で単純に、ああ、日本でこれが見られたなら…と感じる作品だ。
出演者の8割以上が現地・ブラジルのアーティスト。それを、日本人演出家が演出する。
という言葉はスラスラと打鍵できるが、言葉も文化も全く異なるアーティストとの作品創作をたった1ヶ月で行う凄みは、
プロの舞台演出を責任もって行ったことがある人間ならばわかるはずだ。
この作品をみたとき、80年代、90年代のプロデューサーならば、狂喜して日本の名だたる劇場で紹介したはず、と感じた。
2005年、東京・木場公園で敢行された、フランスの騎馬オペラ「ジンガロ」を思った。
フランスから40頭以上の馬を(確か、飛行機で)日本に輸送し、何ヶ月に及ぶQuatantaineと呼ばれる隔離期間(フランスの馬が日本にない菌やウィルスを持ち込まないため)を経て、かくして上演されるに至った、仏の誇る騎馬オペラ「ジンガロ」。
招聘したのは、今はなき「カンバセーション・アンド・カムパニー」の芳賀詔八郎氏。
クレイジーに思える情熱。
ジンガロを日本に紹介することは、文化の価値を日本に伝えるうえで絶対に諦めたくないことだったのではないか。
しかも、カンバセーションは二度も、ジンガロを日本に招聘している。
あの空前絶後の招聘を、二度も行ったのはどうしてなのか、今も(ある意味の同業者として)芳賀氏に問うてみたいが、叶わぬまま。
芳賀氏は私財を投入し、さらに闘病の末、カンバセーションという、伝説的な会社が幕を閉じた。
カンバセーションの解散について、当事者だった方々はきっと大変なご苦労があったはずだと思うが、私は芳賀氏に心からありがとうと言いたい。
文化は、舞台は、作り手はもちろんだが観客の人生を変えたり、人生そのものに意味を与えることすらある。
文化より強いものはない。
(芳賀氏は私と同じ札幌西高等学校卒業という親近感から、当時の私の将来についても折に触れて気にかけてくださり、今もそのことに感謝の念が溢れる)
文化とは何か?芸術とは何か?世界は芸術を必要としないの?
コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻、温暖化など、地球上のあらゆる人間にとって、生きることで精一杯で「文化どころではない」時代が到来している。
本当にそうなのか?
本当に、人間にとっての優先順位において、文化は「どころではない」地位なのか??
「共感」つまり、文化こそが、人類にとって最重要で本質的
霊長類学者・山極壽一氏の著作を読んで、人間の本性は「戦闘的」ではない、「共感的」なのだと理解した(それを信じたい)。
つまり、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」でみる、対立と戦闘が人間の本質かのような理解は間違いだと。
共感の軸になるものとして、文化があるのだと私は思う。
いま現在現実に起こっていないこと、自分に直接及んでいないことを想像する力。
それが共感という能力であり、文化そのものなのではないかと。
戦争も、利己主義も、文化の欠乏から?
90年代、2000年代に日本にもあった「新しい文化の振動」を体感できた世代であったが、この5年ほど、コロナ禍、戦争、地球環境変化への不安により、その感覚を忘れかけていた。
新しい文化の波動に興奮する、感激すること。
それは「無駄」とか「不用」なんかじゃない。
絶対に、違う!
そこで、皆が繋がったし、
「きっと、もっと、何か良いものを生み出せる」、という共感と結束感が生まれたのだ。
文化は経済に左右される?1980年代から2000年代まではMirage(蜃気楼)だったのか?
その時代が特別だったことは疑いない。
ただ、長い人類の歴史の中で唯一の時代だったわけではなく、むしろ、螺旋構造の歴史の中で、何度も定期的に、こうした「文化の春」は訪れているのだと思う。
文化の春の時代の後には、必ず「無駄遣い」だったとか、「権力者や有力者の道楽」と批判され切り捨てられ、文化の冬がくる。
この長い螺旋構造は基本的に繰り返されるものなので、人類や地球が存続するなら、またいつか来るだろう(核戦争、地球温暖化の脅威が高まるばかりの現状ではそう言い切れないのが、これまでと違うが、螺旋構造自体は変わらない)。
帰納法で行動する。
常々の指針として、自分は「帰納法」で行動すべきだと思っている(一般的なルールや定義によってでなく、事実や現象によって判断する)。
つまり、過去に行われて「良い」結果が現れたと思うことは、現状や実現可能性の高低と関係なく、基本的に、追及すべきものと考える。
瀬戸内サーカスファクトリーの活動で最もわかりやすいのは「文化の脱中央集中」だ。これはフランスで10年以上目の当たりにしてきたことで、フランスでは国家がそれを主導した。
それを個人でやろうというのだから無鉄砲かもしれないが、結果がが良いとわかっているのに、なぜやらないのか。私は瀬戸内サーカスファクトリーの主たる目標のひとつを「日本の津々浦々に、文化の血流を行き渡らせる」ことに据えた。
文化は政情を超え、あらゆる境界線を超えられるから。
こうして文章を書くことで何かを劇的に変えられると思わないし、瀬戸内サーカスファクトリーの十数年の活動でも、まだ小さな光が見えてきたばかりだ。
2005年にカンバセーション・アンド・カムパニーの芳賀さんが呼んでくれたジンガロ「ルンタ」を観たときに感覚と、小池さんの舞台を観る時の感覚は似ているかもしれない。
ルンタは実際に馬が数十頭も駆け抜け、風が起こり、砂を浴び、馬の激しい呼吸が渦巻く。観ているうちに膝ががくがくと震え、身体中にその震えが広がり、終演後に主宰のバルタバスに会えたのに、顎がふるえて一言も話せなかった(それを見たバルタバスは無関心な笑いを浮かべた…きっと、あまりにもそういうことに慣れていたんだろう)。
身体中の細胞が入れ替わる感じがするとき、
昨日まで見ていた風景と違う景色が広がったとき、
それが人間として生きている証であって、それが文化の力なのだ…
この世の中が終わるより前に、その世界は戻ってくると信じて、
やれることを、全部やる。
「ほんとうに創ろうとするひと」が希望を失わないうちに。
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