季節が巡るはなし
秋が好きだ。
栗やかぼちゃ、さつまいも…… アースカラーの季節の食材、それらを使用したお菓子などがお店に並ぶ時期になると、季節の恵みを感じてとても嬉しくなる。秋がいちばん、体が生きている感じがする。地球と一緒に呼吸ができるような。
ハロウィンカラーも良い。鮮やかなオレンジと紫の配色を発案した人は天才だと思う。お店でこの時期だけに見られる、この配色だけでそれとわかるもの。穏やかなアースカラーと鮮やかなハロウィンカラーは 案外と喧嘩することなく調和している。
田舎ではハロウィン文化に馴染みがないが、こういったもので視覚から上澄みを採取して、遠くの地で親しまれているであろう文化に思いを馳せることはとても楽しく、心を豊かにさせてくれる。それから単純に、かぼちゃや紫いもなどの 秋限定の甘いものが大好きなのだ。
それから、近年では気候に合わせて 春に行う学校が増えているが(正しい判断だと思う)、運動会の時の グラウンドの土けむり舞う乾いた空気、テントの下のすこし湿ったひんやりとした土、体の深いところまで重く響く大太鼓の音、多くのエネルギーが重なり合いひとつとなった応援の声、それらを同時に五感でもって感じることが、あの頃はほんとうに好きだった。水泳以外、運動が得意というわけではないが、私にとって運動会に連なる全てが特別なものだった。
夏が手を振って、秋と手を繋いで、微かに去ったはずの夏の残り香を感じられる季節。
運動会の練習が終わり、係員として道具の回収をしていたとき つい先ほどまで全校児童が集まっていた、今は人の疎らなグラウンドの中央で うすく乾いた風に呼ばれて振り返ったあの日を、私はずっとずっと忘れない。
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冬が好きだ。
暖かさというものは、生物に安心感と幸福感を与えてくれる。「人間に」ではなく「生物に」なのは、少なくとも私の知る限り、猫も同じだからだ。秋にかけて気温が下がってくると、うちの猫は床や絨毯の上から、布団やホットカーペットの上に移動し、気持ち良さそうに丸くなったり伸びたりしている。暖かさを求めるのは、きっと生物の本能から来ているのだろうな、と 猫を眺めていると思ったりする。
凍えるような冷気に晒される屋外から、程良く暖房の効いた屋内へと足を踏み入れた時のあの安心感は、何物にも代えがたい。夏の陽の照り付ける屋外から 空調の整った涼しい屋内へ入った際にも同類の満足感が得られるが、その点のみを考えると、やはり私は冬の方が好きだ。要は「暖かさに幸福を得るか、涼しさに幸福を得るか」ということなのだが、私は圧倒的に、前者派なのである。
寒いから暖まりたい。当然の願望であるが、それが得られることは当然ではないということを 忘れずにいたいと強く思う。
冬の日、寒い屋外から自宅へと帰り、何枚かの扉を潜ると 心地良い暖かさに包まれるのは、そこにあなたを待つ誰かがいるからである。一人きりだとしても。帰ってくる頃を考えて部屋を暖めておいてくれた 過去の自分がいる。誰かの幸せを願って暖房器具を開発・設計・製造・販売してくれた誰かがいる。そして、実際に起こり得た出来事かどうかはさておき、そこには大好きな家族の笑顔、もこもこの大きなカーペット、あたたかなスープのいい香り、かちかちと燃えるストーブの音……があるのだ。きっと多くの人の心の底のほうに。
暖かさとは、生きている証明だ。幸福の象徴だ。
クリスマスも大好きで、冬がやってきて お店の中やテレビCMなんかがそういった雰囲気を出してくる頃になると とても心躍る。ラジオはクリスマスソングを何度も繰り返し流す。さすがにもう飽きた、と面白くなってくることすら、この時期にしか味わえない贅沢である。
クリスマスは私にとって、一年でいちばん幸せになれる日だ。きっといま、多くの人が、大切な人と大切な時間を過ごしている。あたたかい時間が流れている。今を大切にしたいと思える人たちがたくさんいる。きっと。そう 心を巡らせるだけで、私は世界でいちばん誰よりも幸せになれてしまうのだ。
私自身、家族と家で過ごす以外のクリスマスの在り方を経験したことがないから、かえって色々な過ごし方を考えることができて楽しい というのもあるかもしれない。だが、クリスマスを自宅で家族と過ごすことは、原初の記憶であり、それこそが何よりの贅沢であると私は思っている。
そして、私にとっては 世界中の誰もが、しあわせをくれるサンタさんなのだ。
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春が好きだ。
これまでとは違う、新しい何かの始まりを予感させる涼やかな風の あの独特の匂い……。それを五感で感じ取るたび、ああ、今年も春がはじまるんだな、と嬉しくなる。
水色と白との境が曖昧に混色された空、芽吹きはじめた地面の黄緑色、そこかしこに白や黄の小さな命……。春は色がやさしい。しかしやさしいだけでなく、その一つ一つが強い意思を持っている。冬を越え、春を迎えることのできた者の強さだ。だからこそ、春は生命力に満ち溢れていて、その空気の中にあるだけで 気力が湧いてくるのを感じられるのだと思う。
記憶の中で、はっきりと情景が思い起こされるものは、なぜか春のものが多い。私自身、多くの物事を「風」と関連付けて、というより 風そのものとして体験する(共感覚の一つと思われる)ため、実際に心地の良い風が吹いている春は、身体に染み込んで、存在感が強いのだ。
大学二年生。サークル勧誘を終えて、新入生の来訪を一人待ちながら、入り口と窓とを開け放った茶室を通り抜ける水色の風。
大学一年生。大学生活を待ちわびて、買い出しに行くときに マンションの廊下で吹かれた黄緑色の風。
中学一年生、心地良い風の通る 人の行き交う部室で、楽器ごと撫でられたターコイズの風。
小学六年生、誰もいなくなった昼休みの教室、全て開け放たれた窓からは 運動場の賑やかさが伝わるものの、ぶわっと舞い上がる午後のやわらかな光を受けたカーテンが世界を遮り 私を一人きりにしてくれる。いつでも味方だったうすだいだいの風。
小学何年生かは忘れたけれど、校舎最上階のいちばん端にある 風通りの良い音楽室、教科書を手にCDデッキからは音楽が流れて、まるで音に合わせて歌うように駆けてきた 爽やかな緑色の風。
春の風は、やさしくて、さわやかで、元気だ。だから好きなんだ。
それから桜。こんなに美しい花を原風景として得られたことだけでも、日本に生まれてきて良かったと思える。
桜は(地域にもよるとは思うが、少なくともこの辺りでは)「卒業式にはまだ咲いておらず、入学式には満開か、あるいは散り始めている頃か」というものだと聞いた。母に聞いても、卒業式に桜なんて絶対に咲いていない、と。
しかし、私は小学校の卒業式当日、満開の桜の中を歩いた。小学校にはたくさんの桜の木が植えられていたから、その薄ピンクの花弁が儚く舞い散る中を、開放感溢れる喜びと 何とも言えぬ虚無感の入り交じる中歩いて、いちばんの友達と写真を撮って、それから桜に見送られながら、その足で帰った。
誰が何と言おうと、私はあの日、桜を見たのだ。
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夏が好きだ。
何を今更。最早語り尽くしてしまった。
夏のすべてが愛おしくて、鬱陶しい。大切で、苦しい。最初から存在しなければよかったのに、絶対になくしたくない。
夏なんて、人生そのものだ。
毎年家族で行ったキャンプ。庭で膨らませたビニールプール。人を掻き分け、はぐれないよう必死で親の姿を追った花火大会。カラフルな寒天とサイダー。ビニールバッグと塩素のにおい。たった一度だけ、友達と一緒に見に行った花火。
小学生の夏休み、校庭前の花の水遣り当番を終えたあと、運動場と中庭とを繋ぐ通路の端の方にある藤棚の下で、一人ぼーっと立ち尽くして 奥の方に見える、草むらから生えた白い百葉箱を眺めた
この記憶も 正しいものなのか、私にはもう永遠にわからない
そんな夏だった。
終わりがあるから美しい。はじまりがあるから切ない。
大好きな季節にまた出会うために、私は明日も息をする。
20.10.07-15
自分本のエピローグとして書いたもの