自分も、ひとにも、世界を拓きたい
私は本当に世間を知らなすぎて、それを特に実感するのは現代的な小説や随筆を読んでいるときなんかにスマホを手放せないことで、おそらく紙の辞書には載っていないであろうお店の固有名詞やブランド名や、地名や音楽のグループ名や俗語などを(調べてからそういう括りのものであると初めて知る)、どんなに語彙を増やそうが、それらはまず知る由がなくて、本を読んで調べて知ることができたということはそれはそれで一つの価値だけれども、都会の人は、世間を生きている人は、これらを当たり前に知識として持っているのだろうか……と思うと、自分の無垢さを恥じたくもなるし誇りたくもなる。
ブランド名や店名をググると、位置情報から近隣の店舗出るけど、大体福岡か広島あるいはもっと遠くなんですよ。そんなの山奥にいる限り知る機会なんてないじゃないですか……。
ブランド物なんて見る機会もないし。人と関わらないと自分が能動的に取りに行った範囲のことだけしか知ることができないから、本当に知らないことは完全に自分の認識の外側にあるため、どうやっても知ることができないのである(身近や身内に年上がいない私はその典型)。
ネットもそう、情報は溢れているのに、知ろうとする術を持たない限りは認識できず何も見えない。
この、人それぞれの認識可能範囲の狭さと広さ、拡張性、その解像度、をそれぞれが認識して(ここを大人がこどもに教えてあげるべきだと思う……)、それぞれに合った、欲する、知識と経験を得ることができれば、そして自他の認識範囲がそうである理由(例えば私なら、田舎かつ年上のいない環境で、厳しく管理されて育ったことに由来する)を相手と共有できるなら、きっともっと世界は生きやすくなるだろうし、無理も今ほどしなくてもよくなるだろうし、ひとはあたたかくなると思うんだけどな。
この「本人の認識できる範囲外にあることは、たとえ目に入っても情報を得ても、認識することができない」ということを、意外と人間は知らない。
こどもに認識を拡張する術を与えず、情報だけ投げて、それで教育や選択肢を与えたと思っている大人のなんと多いことか。
近年自分が大人になったなと唯一思うことが、以前は教育者になることや、子どもと関わることなんて絶対にいやだと思っていたのが、今はそれが可能であるのならば積極的になりたいと思うことなんですよね……(念のために書くと自分の子どもという選択肢はありません、ひとの子ども)。
誰かの認識を、選択肢を開いて、自由度をすこしでも上げてあげることができるなら、それはものすごくうれしくて、たいせつで、しあわせなことじゃないですか……。私はそれができるひとになりたいよ。どんな方法であったとしても……自分ができるやり方で……。
何も見えていない、ただの文字列だけの選択肢なんていらない、必要なのは認識を開いて視界を広げることなんだよ。それがしたい。と思う。
21.08.29