創作【遺書】
自分の望んだ夏が来ればよかったのに
夏なんてつまり理想の言い換えだ、惨めな言い訳だ。
夏が失った過去の比喩だなんて嘘だ。ならば失うべき美しいあの夏を経験していない僕は何を失う? 過去の経験なんてすべて無視して、ただ「夏」の概念に自分の甘ったれた恥ずかしい理想をありったけ詰め込んでぐつぐつと長年煮込み続けて出来上がったものが「失った夏と言う名の理想」だ。
許してくれ
僕はただ君と夏を過ごしたかった
二人きりの駅のホームで生温い風を共有したかった
「暑いね」の言葉に「そうだね」って返事をしたかった
風に乗って届く微かな甘い香りに自分の生の音を感じたかった
君のことだけで頭をいっぱいにしながら 君が僕のために選んでくれたCDを夜が明けるまで一人聴き続けていたかった
初めて目にするその浴衣姿を この目に焼き付けたかった
夜の更けた橋の上、空に咲く花火の音にかき消されることを確信して「好きだよ」って呟きたかった
それだけなんだよ
君はどこにもいない そんなことはもうとうの昔に気付いていた
だけど僕は君のことが忘れられなかった その黒い髪を、細い指を、僕のすべてを見透かすような遠い目を
そうして君は僕を夏に閉じ込めた
僕も君を夏に閉じ込めた
僕は夏にすべてを捧げた
君の姿を探すために人生を捨てた。いや、君に出会った瞬間から僕の人生は君のものだった。僕のすべては君だけのためにあった
君はどこにもいやしないのに
また夏が終わっていく。君の影が薄れていく。君のいない季節は実に空虚で、現実味がなくて、ただ夏を待つためだけにやり過ごす無意味な時間だ。
それにはもう飽きてしまった。うんざりだ。
誰にも理解されない理想を求めて人生を捨てた僕を、日々を真っ当に生きる人々は誰一人見向きもしない。軽蔑の目で見る価値すらない。それが僕だ。
美しい夢を、理想を追い求めて、存在しないものを手に入れようとした者の成れの果てだ。ゴミだ、クズだ、燃えカスだ。酸素を食い潰す二酸化炭素生産機だ。
だから僕は、夏を終わらせることにした
これが最後の夏だ。秋も、冬も、春も、全部終わりだ。もう苦しまなくていい。君のいない季節に泣くことも、君のいるはずの季節に泣くこともしなくて済む。
そう思うと本当に、清々する。
僕が一人、ひっそりと消えたところで世界は何も変わりはしない。変わる価値もない。そんなことは当然だ
だけど僕は君にとって価値のある存在になりたかった 僕が消えたとき、心に傷を負ってくれる人が存在して欲しかった
たとえそれが 自分の中だけの都合の良い空想上の存在だとしても
君はどこにもいない、わかっていた
だから僕は君を終わらせる 夏ごと全部終わらせる
だけどもし、君がこの遺書を読んで 少しでも心を動かしてくれることがあるのなら 僕はこの世界に生まれてきて本当に良かったと思う
自分を価値ある存在だったと思える
夏に生まれて、夏に焦がれて生きて、夏に終えられるのなら本望だ
そろそろ行こうか、さようなら
大好きだった、僕の夏。
願わくば、君が夏を思い出すとき、その一端に僕の影が横切ってくれますように
ごめんね