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「All DIRT ROADS TASTE of SALT」と「塩を食う女たち」

「ALL DIRT ROADS TASTE of SALT」は今年に入る直前に映画館で見ることができた。サンダンス映画祭で話題になっており、とても気になっていた。しかしどうせ見れことができるのは1年後ぐらいだろうと思っていた矢先に、A24の未公開作品集という特集で上映が決まった。

詩人、そして写真家でもあるRaven Jacksonによる初の長編監督作品である「ALL DIRT ROADS TASTE of SALT」は、1970~80年代のミシシッピ州に住む黒人女性、マッケンジー(マック)の人生の風景を描く。作品の中に言葉は少なく、時間軸のずれがあることや、年齢の違うマッケンジーが異なる4人の女優によって映し出されることからまるで1人を映し出しているようには思えない。

"All these drops might be a river someday, might be snow. Might be in you."

壮大な自然と共に過ごす人々の暮らしの映像の中では、水というものが一つのテーマのようにして描かれる。それは彼女達の生活の中で失われては生きてはいけないものであり、そして時に牙をむく自然の恵みである。そして彼らの共同体の中で長く培われた絆や愛のようなものを代弁しているようでもあるのだ。彼女達の共同体の中に確かにある「何か」は、家族の中でのみ受け継がれるものではない。時に近所に住む人々や、乳母など、血の繋がりという確かなものを超えて描かれる。

映画のハイライトとも言える再会のシーンは、多くを語らない。時代背景すら、部屋の中で登場するマーティン・ルーサー・キングやジョン・F・ケネディのポスターによってのみ推測できるものであり、マックとウッドの2人の顔が交互に映されるこのシーンでは、その時代における再会の意味をその瞳と間のみが表す。

トニに会えたことを、わたしはありがたいと思う。彼女は黒人共同体の経験や暮らしや創造性や伝統が英語で言語化しきれないものであることを強く意識している作家であると同時に、それでも書くとなれば、新しい言語を生み出すしかないという決意で仕事をしてきた。

塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性 藤本和子著

そしてこれは、「塩を食う女たち」の中で詩人であるトニ・ケイト・バンバーラが話していた内容にも繋がると感じた。彼女は黒人の共同体やコミュニティーの中で共有されている何とも表すことの出来ない何かを言葉で伝えることができないと話しているのだ。彼女が描こうとする共同体の暮らしの核のようなものを映像の中に見ることができる。

1970~80年代における黒人達の生活は言うまでもないことであるが、映画においてそのような描写はなく、描かれるのは共同体の散りばめられた生活のみである。このことは、彼らが過ごした厳しく悲惨な道のりは文字によって表せると言うことを逆説的に示しているようにも感じる。詩人でもある監督がこのような映画を作るに至った所以のように感じられるのだ。

この二つの作品のタイトルにおける共通点の塩という言葉に関する「塩を食う女たち」からの引用で終わりたい。

塩を食らう者たちは生きのびること、生存することを願う者たちでもあるし、体内にあって多すぎても少なすぎても逆効果になる「塩」という基本的な生の要素を分かち合う者たちでもある。生存の根としての塩、その塩を食らう共同体。

塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性 藤本和子著


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