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2月まとめ(3月初週ぐらいまで入ってる)パート1

大学を休学することにして、自分の好きなことに時間を使おうと決めてからもう2ヶ月近く経った。1.2月は飛ぶように過ぎるというけど年々早く感じるのは恐ろしい。2月なんて記憶がほとんどない。

ピクトル・エリセの「瞳をとじて」は本当にすごかった。今年はたくさん映画館で映画を見ようと思って実際に頻繁に行っていたけれど、あれをみた後は少し映画はいいかなと思うぐらいだった。結局あの感動は今年超えることはないんじゃないかな、映画のための映画だったし、必然として作られるような映画はやっぱり恐ろしいぐらいにパワーがある。

20年後ぐらいに見返したらまたきっと面白い映画が自分の中になんこかあって、「ロスト・イン・トランスレーション」だったり、「aftersun」はそこに入ってた。「瞳をとじて」もここに入ったかな。

何を専攻しているのかという問いには多分、African-Americanの文化ということになる。好きに理由はいらないと思うが、異文化を学ぶ上でリスペクトの理由は必要になるし、そこを突き詰めることは何かを学ぶ上で結局逃げられないんだろう。

「キンドレッド」を読んで、それをきっかけにある先生と話す機会をいただいた。なぜアフロフューチャリズムに興味を持ったのか、それのどこが好きなのかという簡単な質問から始まった。自分の中でなんとなくで持っていたものを言葉にして伝えたおかげで自分の中でも整理がついた気がする。

そして、何より自分が同じような学問に精通する人として聞きたかったことがあった。それは「どのような立ち位置としてこの文化に触れているのか」ということだ。実際彼女もアメリカなどでそのようなイベントに行くと、警戒の目をしてこの質問をされるらしい。そりゃそうだ。彼女は長く研究を続けていて、彼女自身の答えは、私とその文化というものは、明確にラインがあるものの、他者とまでは言えないというものだった。そこには彼女の膨大な時間をそれに費やしてきた自信を感じた。また、その質問自体にステレオタイプが含まれているというのも仰っていた。他の文学や文化が好きな人間に対して、なぜという疑問にまで至らないだろうということだ。少しこの世界に足を踏み入れた自分でさえも、我がどこにあるのか、どこにいるべきなのかということに悩み苦しんでいるのであるから、何十年もその身を捧げている人たちは想像もできないような時間をその悩みに費やしているのだろう。ゼミの先生にそのようなことについて飲みの席で聞いた答えも面白かった。その人は我とか自分みたいなものはないと答えていた。空っぽの自分に全てを吸収して、そして先生として人に分け与えていると言っていた。我にこだわってやっていると気が狂うとも言っていた。

話は戻るが、一緒に話をする機会をくれた先生は、コーネル・ウェストが10年近く前に青山学院大学で講演をした際の書き起こしの資料をくれた。これはまたの機会にノートに書こうと思う。そして、もう一つ。自分の立ち位置がどこにあるのかというのは大事にした方がいいというアドバイスだ。黒人大学で現在教鞭を取っている知り合いの人々は、日本の文学という遠く離れた文化と黒人文学の共通点など、自らの文化を中心とするような人々がいるということだった。私達日本人にとって、日本文化というものは素晴らしく見えないものだが、意外とそうでもないみたいですよという方は何回か言っていた。大事なことなんだろう。


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