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オクティヴィア・E・バトラー 「キンドレッド」

少し関係のない話になるが、自分がアフロフューチャリズムに興味を持つきっかけから入ろうと思う。最初のきっかけは、「Atlanta」である。Childish Gambino(Donald Glover)が主演、監督を勤めたこの作品は、自分の趣向を大きく変えたと言っても変わりはない。シーズン1の「人種転換」の奇抜なストーリーはこんなことしていいんだという気持ちにしてくれたし、一歩間違えれば終わりのリアリティを描いたシーズン2の最終話はナラティブによって物語を体験することでしか得ることのできないものを学んだような気がする。この作品自体はアフロフューチャリズムというよりもアフロシュールリアリズム的であるのだが、アフロフューチャリズムという言葉の存在を知らなければ、その後押野素子氏によって翻訳された、イターシャ・エル・ウォマックの「アフロフューチャリズム〜ブラック・カルチャーと未来の想像力」を手に取ることはなかっただろう。「ブラックパンサー」、「ムーンライト」のヒットによる「ブラックシネマ」の台頭に熱狂していた自分は、この希望に溢れていながらも、過去にしっかりと光を当てる二つの矢印を持つものに惹かれたのである。そして今回、アフロフューチャリスト達にも多大な影響を与えたであろう、オクティヴィア・E・バトラーの「キンドレッド」を読むに至ったのである。

この一冊を読み終えることに時間がかかったのは、長い小説を読むことは久々であったということはもちろんだが、一つ一つの考えを自分の中に落とし込んでいくことに時間がかかったからだと言えるだろう。
奴隷制度の中で生きる人々の暮らしを追体験することで何よりも感じたことは、それらが決してただの過去の事物ではなく、今もなお生きる続けるものであるということだ。フューチャリスティックなストーリーによって、主人公であるデイナは自らの祖先である白人領主の人間と出会うわけであるが、今まで黒人の人々の祖先が、自らの祖先を奴隷として飼い慣らしていた白人である可能性は考えたことがなかったのである。これに関しては自らの知識不足や思慮の浅はかなことでもあると思うが、この事実は恐ろしいことであると学んだと同時に、アメリカにおける人種の分断の理由を垣間見た気がした。
筆者であるバトラーが、この小説を執筆するに至った理由として、大学時代に弁を取っていた際に、学生からなぜ奴隷であった人々が抵抗しなかったのかわからないという問いを受け取ったことだと述べている。これに対しバトラーは、我々自身の失われた黒人の歴史や意思を取り戻さないとならないということで執筆を始めたらしい。未来へと進むためには、過去に戻っていく必要があるということは、公民権運動の時代から言われ続けていたことであり、必然でもあるのだろう。


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