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身体を脱ぎたい


24歳、父親の支配から抜け出して自分でお金を稼いで生活するのだとばかり思っていた。
学校事故で後遺症を負い症状が悪化して一時期は衰弱してほぼ寝たきりだった。体力は衰え、筋力も歯も全て失う有様だ。
気圧や気温といった外的要因や時間帯によって体調は変化した。つねに揺れ動き、不確実性のなかに身を置いている。そんな予測不可能な海に飛び込み、母は刻一刻と変化するわたしの看病を引き受けていた。


もしマイノリティを、ある社会において弱い立場に置かれる人々のことだと定義するなら、マイノリティにとって、自分をマイノリティにするルールは、はっきりと見える。その見えるルールは、社会の常識をわきまえた成員になるために課されるハードルとして目の前に立ちはだかる。もしかすると、マジョリティとは、そのハードルとしてのルールが、そもそも見えておらず、あるいは見えても我慢したり見なかったことにしたりできて、きちんとふるまえる人たちのことかもしれない。

ヘルシンキ 生活の練習はつづく 朴沙羅


たとえば美容室。
日常生活では母か、医師や看護師としか主な接点がない。わたしの身体の状態を知らない他者と面と向かって接する唯一の機会でもある。
まず当日キャンセルしても料金が発生しない美容室を選び、前もってドライカットのみ短時間でと病状を含め説明する。翌日は寝込むので数週間は病院の予約は入れないでおく。半年に一回の大掛かりな一大イベントであった。

緊張で前日はよく眠れない。当日は具合が悪くなった時のためにあらかじめ色々準備をしておく。
そんなこんなでようやくたどり着いたかと思いきや、担当美容師さんに開口一番「元気そうですね!」と言われた。まあわたしの見た目は健常者そのものだし、ピンときにくいのだろう。
席に案内され「お仕事しているんですか」と聞かれていいえと答えると「それだったら普段は在宅で仕事してるんですか」と言われた。なんか噛み合っていない…?
それから「朝のスタイリング早くて時短になりますよ」とか「これならお風呂入った後テレビ見ながら乾いてますよ」と言われ、通勤してませんしお風呂入った後は疲れ果てているので母に髪の毛乾かしてもらってるんですよと、その都度体調のことを説明したら「体調が悪いっていうのは激しい運動すると疲れやすいみたいな感じですか」と言われた。
同じ言語なはずなのにまるで言葉が通じない。美容師さんの方も自分の尺度に当てはまらないわたしの存在に困惑しただろう。


美容師さんの人格的な問題だけに限らない。具合が悪い日常を生きる若者の存在は不可視化されているからこういった場面はよくあった。
でも一口に言ってもそこには多様なレイヤーが存在する。持病、事故、名前のわからない不調、精神疾患といったところから社会的立場など様々な要素で組み分けられた。特定のカテゴリにまとめることで可視化されるかもしれないが、偏見や差別を生む可能性もある。
それでもあえて共通点を見出すなら「体調を優先にしていないと生きていけない集団」または「周りに合わせることができず、身体の状態に周りを合わせなくてはいけない集団」どちらにせよそのせいで生活に支障をきたしままならない日々を送っている。


事故前は美容室でシャンプーができていたが、他人に頭を揉まれると具合が悪くなってしまうのでできなくなった。当たり前にできていたことができなくなることを認めなくなかった。それで何度も無理をしたことがある。
気持ちはずっと健常者のままで身体の変化についていけなかったのだろう。普通に固執し、現在地を見ようともしなかった。
わたしが誰よりも今の弱った身体を見ていない。
現実を直視するのが怖くて身に起こっている苦痛に抗って逃避していた。

一時的な人生の休息みたいなものだと思っていたのに10年が経ち症状は固定化し、いつのまにか恒久的になっていた。そんな現実が信じられなかった。
書類で職業欄は「その他」だし、履歴書なんて真っ新だ。10年あったら何ができただろう。小学生は高校生になり、中学生は社会人だ。その間わたしは何を成せたわけでもなく、家のベッドの片隅にいた、としか説明できない。目に見える能力や数字は何もなかった。
未だ「病気を治す」すら果たせず、そのゴール地点はどこにあるのかわからない。

「病気を治す」とか「健康になる」は症状がおさまるだけではなく、"普通"に適応されることが含まれている気がする。ただでさえままならない身体。高く聳え立っているハードルに囲まれたなかでそれらを超えたところにある普通のさらに上を目指すことはあまりにも過酷すぎないか。

それからわたしは何もしていなかったわけではない。
だるくても朝になったら起床し、日中は苦痛に抗って無茶をせずに横になり、夜になったら薬でもなんでも使って眠るを続けた。症状は寄せては返す波のように一進一退を繰り返す。衰弱した状態からは徐々に持ち直してきた。些細だけどわたしの回復はもう始まっている。
単に「できなかったこと」が「できるようになる」に結びつくことだけがゴール地点ではないし、なんならゴールを目指さなくて良い。苦痛を取り除けるならなんでもするが、今のままならない身体の状態のまま周りをあわせるように生きていくことも簡単な選択肢であってほしい。



たましいに性器はなくて天国の子はもうどんな服でも似あう

佐藤弓生 薄い街



わたしは「宝石の国」の宝石になりたい。砕けても痛みはないし、光を食べればいいし、着心地を気にせずかわいい服を着られる。それに男でも女でもないところも惹かれた。
衰弱した頃自分を「女」のようにも「女」でないもののようにも感じていた。性自認はノンバイナリーに近いのかと思っていたけど自分の身体を受け入れられないだけだった。
その片鱗は幼少期からあったが病気になってさらに自分の身体への違和感が強まった気がする。この身体から出たいと願って願い疲れた。
とにかくこの身体を脱いで身軽になりたくて人間の形を取らない生き物に憧れていた。
ベッドに横になっているのにも疲れると足の方と頭の位置を変えて小さな気分転換をよくする。白い壁を見つめながら消えたいとつぶやく。死にたいわけではなく痛みから逃れるために消滅したかった。

내가 틀린 거라고 모두가 말해도 이 밤이 지나면 함께 웃을 수 있길
自分が間違っているのだと皆が口を揃えて言ってもこの夜が過ぎてさえしまえば共に笑えるように願って

SIMPLE 2分53秒あたり


そんなときにYoutubeでSIMPLEを見た。布団がみるみる涙で濡れていくのがわかった。
なんでわかるんだろう。母が声がけしてくれても、あたたかい猫にふれていても、痛みから逃れられないこの身体は孤独だった。自己の輪郭を持つことは孤独でもあって、また尊厳でもある。
自己を消滅させたい衝動を持ってしてもなお、この身体は祝福されるべき存在だと信じたかった。わたしは幸福になる資格がある人間だと切実に想いたかった。
いつのまにかうずくまって泣いている身体をわたしはつよく抱き止めていた。はぐれないように、これ以上見失わないようにしっかりと。



無限아주niceで花道をかけていく瞬間、永遠の一瞬を目撃してるようだった。強烈なわりに発散できないと言い表す人もいたが、確かにその衝撃に時間が止まったように感じる。

人間は矛盾性をはらみ、刻一刻と変化していく多面的な生き物だ。炎のようにそのつど色や光、形を変えゆらめくように生きて、最後ははかなく消えていく存在。
SEVENTEENを見ているとなぜかそれが眩しく美しいもののように思えた。
無機物のように安定的な固まったものではなく、物凄い速さで変遷し、ゆらぎ続けるなかでその一瞬が永遠に静止するようだった。永遠は不変の未来ではなく過去の一瞬を切り取るためにある。だからSEVENTEENはもう永遠だと思うとどこか安心する。

みなさんを苦しめるクソみたいな世の中で、僕たちだけは本当にみなさんの味方です。みなさんが苦しい時、僕たちが手を握っているということを覚えていてほしいです。

Carat land ウジさんのコメント


伝えたい歌が、話が、きれいな言葉がわたしにもある。
自分の向こう側にある光を見つめていたはずが、祝福を受け取っていた。彼らへの祝福がわたしへの祝福となり、幸福や尊厳の祈りがわたしにも還元される。
SEVENTEENから一方向に受け取るだけではなく、CARATとして彼らの姿を見つめるあるいは記憶することで、この世に彼らが生きた証拠になった。

それでもこの身体から出て、宝石になりたいと思う夜もある。
でも永遠の一瞬を目撃したのは、生の躍動感に触れられたのは、わたしが生身で脆い人間だからだ。
今は「女」であることとわたしであることが一致し、自己同一性がはっきりしたように思う。「女」に分類されないようにと肩肘張ってきた力は抜けてきた。


いつだってSEVENTEENは明るい方へ、生の方へとわたしを導いてくれた。CARATとしてわたしの身体は彼らと地続きのところで最初で最後の今を生きている。少しだけ生身の身体が宝石のようにまばゆくみえた。


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