光の道で
仰向けで両腕を健やかに伸ばし、手のひらを上に向けて、生まれてから一度も傷ついたことがないひとのように眠る。怖いものなんてこの世界には何もないかのように。
些細なことでは動じない精神力に初めは興味をひかれた。妥協点を探りながらどこでも自分であろうとする。たとえ金魚鉢に閉じ込められていたとしてもそこに大海原を見つけて自由に泳ぐひとだと思う。
バーノンさんのまっすぐな生き様はダンスにも表れている。身体に一本の芯が通っているみたいでどんなに複雑な振り付けでも落ち着きと安定感がある。手足をどう動かすかよりも、いかによけいな力を入れないか、体幹を維持できるか正確さを重視しているダンスだ。コントロール不能な肉体を自由自在に操れるようになるまでの凄まじい練習量たるや、想像を絶する。
初めのうちバーノンさんに抱いていた印象は、付け入る隙のない頑丈な樹、森の中央に聳え立つような巨大樹だった。脱いだ服を丁寧に畳む几帳面なところもそんなイメージを抱かせたのかもしれない。けれど皆の幸福を祈るようなバーノンさんは、畏怖して近寄れない御神木ではなく、その木の周りにいつも小さな小鳥やリスが集まっていそうだった。
几帳面さは一体どこへと思うほど、オレンジの皮をむしれるところからむしり取って、食欲が失せるような見た目になっても気にせずかぶりつく。自分の興味関心が向いたこと以外にはわりと無頓着に振る舞っていた。屈強そうで大人びた彼の年齢相応の、少年のような幼い一面だった。巨大樹の根っこあたりに眠っているトトロを見つけたような気持ち。「あなたトトロっていうのね!」とふかふかのトトロのお腹に寝そべるメイちゃんの声がする。これがわたしがバーノンさんを深く知りたいと思い、はまったきっかけだった。
GoingSeventnenや撮影メイキングなどでは彼のふかふかな一面が垣間見える。休憩中に猫の動画を見て悶えていたり、うきわに仰向けになってぷかぷか浮いていた。見ていると心穏やかになる。(☺️←見ているときのわたし)
去年の紅白歌合戦でけん玉ギネス記録にバーノンさんが参加した際も、始まる直前まで普段と変わらないリラックスした表情を浮かべ、数ヶ月前に初めて触ったばかりのけん玉を難なくクリアしていた。後日、本人が緊張しないよう自分をコントロールしたと言っていて自分の身体の感覚を把握して操れるなんてもはや達人だとわたしは慄いた。
慣れていないと自分の身体のどこに微妙な力が入っているかわからず意識して力を抜くのは至難の技だ。ダンスを修練し自分の身体を自由自在に操る技術を獲得していく過程で、身体の感覚がますます敏感になっていったのではないか。というのは、彼はヘルペスやものもらいができやすく、肌荒れしている様子をよく見る。(その痒みも痛みもわたしに全部ちょうだい)
きっと外部からの刺激に敏感に反応するのだろう。身体の感覚を研ぎ澄ませて思い通りに動かす技術を習得したひとが、自身のヴァルネラビリティ[脆弱性]に気付かないことはない。無頓着そうに振る舞っているのは自身のヴァルネラブルなところをさらけ出さないように守ろうとしているのではないだろうか。
けれどその微細な身体感覚こそ彼の賢さに繋がっている。例えば誰かの言動に周囲がイラつき邪険にしても、そのひとに変わらず普段通りに接するようなところがバーノンさんにはある。人為的なずれを感じ取っては、偏りのない状態にバランスを取る。集団のなかで誰も排除しないように心掛けているのかもしれない。優しくしてあげようと思って他者にすることは利己的だったりするが、バーノンさんを見ていると結局ひとにしてあげられるのは、自分が何者であるか思考を続けて安定した自分でいることだなと思う。
周囲の反応を気にせずに本音を伝える、健全な自己主張をし、僕じゃない人を生きたくないとどんな場面でもバーノンを生き続ける。What defines you?(自分を定義するものは何か)とバーノンさんは世界に問う。幼い頃から自分が何者かということを熟考しているひと特有の早熟した自我。早く大人にさせられたのかもしれないが。
10代の頃のバーノンさんはライ麦畑でつかまえての主人公ホールデンコールフィールドみたいだ。ホールデンは誰からも相手にされない同級生と嫌々ながらも話し相手となったり、興奮して熱を持って脱線していくスピーチを簡潔ではないとジャッジを下して脱線と叫んでいるクラスメイトたちが異様に見えると感じている。ホールデンは微細な感覚を持ち、相手の心の機微も感じ取っていた。わざと相手が傷つきそうなことを言うけど、他者の領域にずかずかと踏み込まない。繊細なホールデンは世界から距離を取って、自意識の殻にこもり身を守っていた。けれどライ麦畑でつかまえてと歌いながら歩いていく子供を見て心動かされているホールデンは、本当は欺瞞のない世界を信頼したい、世界に居場所を見つけたいのだろうと思う。ホールデンは誰よりもこの世界を切実に生きようとしていてわたしは好きだ。
2021年に全員再契約を果たした後で発表されたBANDSBOYでバーノンさんの心境の変化を感じる。
かたくなで自意識の殻で武装していた10代のバーノンさんはSEVENTEENという安全な居場所を見つけたんだと思う。性格や価値観が消えても自分の存在を全肯定するひとが12人もいる。終わりがないことを信じられるような稀有な関係性があることにわたしも救われる思いだ。
バーノンさんを好きになる1年ほど前、治療中の病気が悪化した。お世話になっている先生が、その当時のわたしの状態を振り返るたび「あのときは全体的に薄くなっていたよね」と言った。
薄い、うすい、透い、虚、。
確かにその頃は毎日朦朧として、ここじゃないはてしなく遠いところにアクセスしていたように思う。自分でもなんとなく透明感を帯びているように感じた。
「そこ」は生と死の両方が淡く混ざり合っていって、有形無形森羅万象がどどうどどう蠢いている。宇宙の星の光が全く届かないような深い闇。もしくは真っ新すぎて何も見えないのかもしれない。
抗おうとすると苦しくなるので「そこ」に全てを投げ出したゆたっていた。次第に自他との間にあると思われていた自分の輪郭が薄まってあいまいになり、自我が溶けていくように失われた。肉体がはがれ落ち性格も言葉も消えて、魂だけとなった。
毎日のように、明日は今日よりは楽になる希望を持ち新鮮に絶望した。
自分の内側にあるはずの孤独は、「そこ」に繋がっている扉があるのかもしれない。普段はどこにあるのかわからないけど何かのはずみで「そこ」への扉が現れる。自我がない孤独の先にある別次元の領域。
現実の世界よりも「そこ」にいる時間の方が伸びていった。過去と未来も同時にあって昨日と明日が入り乱れていた。「そこ」で生と死の淡いにただよっていたときなにか光を見た。ぼんやりと深い闇をひとり照らし出すまばゆさ。吸い寄せられるように光へ近づいてみると、光は少し先を照らした。光の道を頼りにして進んでいくと元の世界に戻って来れた。
バーノンさんと出逢った。
独りよがりで利己的な光は目が眩んで、「そこ」ではあっという間に消えてなくなる。けれどバーノンさんの光は暗闇でこそ熾烈に輝きを増し本領を発揮した。
「そこ」へは意志で行ったり来たりできるところではないし突然放り込まれてしまうけど、光の道はわたしの魂の命綱となっていた。
現実の世界へ戻ってきたわたしは自我も言葉も失っていた。しばらく茫然と凪いでいる時間を過ごした。喪失を認めて受け入れることは、感覚を呼び起こすために必要だが、痛みをともなう。けれど幸福を祈ってくれるバーノンさんがいたから、人間として生きられると思った。世界のどこかでバーノンさんが真摯に向き合って生きていることがわたしの希望となった。現実の脆さの中でSEVENTEENという安全なスペースがわたしを受け止めてくれて守ってくれた。彼らの表現、芸術によってわたしは今日を生きている。
バーノンさんにとって「アイドル」とは好きでいてくれるひとに対して責任感を持つことではないかと思っている。自己省察や自己客観化に励み誠実であろうとすることが責任を持つことでありアイドルであることだろう。平等を望んでいるけどなぜそうできないかもわかる、けれどデビュー当時と変わらず皆の幸福を彼は願う、願うことはできるから、と現実に叶うことは難しくてもそう祈ることに意味があるように彼は言う。そんな彼がアイドルでいるとき、他者の尊重と幸福を真摯に願う彼の祈りに近いものがあると思う。「そこ」にいるときにだれかの祈りを感じた。尊厳を祈ってくれてる、と。