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「友だち」と戦争について、思うこと
「世界中に友だちをつくったら、きっと戦争はなくなるよ」
いつだったか、誰だったか、この言葉を教えてくれたのは。
明るくて温かいこの言葉の響きは、いろんな国を旅して友だちを作っていくうちに、少しずつ実感を伴うようになった。
今も、甘くてやさしい希望の光みたいに、わたしの心の中にはこの言葉が住み続けている。
「世界中に友だちをつくったら、きっと戦争はなくなるよ」
わたしがウクライナのキエフに訪れたのは、今からちょうど10年前。留学中に参加したボランティアキャンプで出会ったウクライナ人の友人を訪ねてのことだった。
出会いのきっかけのボランティアキャンプは、アイスランドで開催された。いろんな国から若者中心に20人ほどが集まり、2週間ほどを一緒に過ごす。
フィンランド人、ベルギー人、イタリア人、ルーマニア人、日本人、イギリス人、ポーランド人、韓国人、ウクライナ人、ドイツ人、ロシア人…。
”この人は〇〇人”という感覚は、日毎にすこしずつ溶けていった。
お酒を飲むとクレイジーなあの子、ちょっぴり皮肉屋なおばちゃま、政治の話が大好きな青年、替え歌が得意でみんなをノせるのが上手な彼、面倒見が良くて聞き上手なお姉さん、のんびり屋で昼寝が大好きなナマケモノ。
当たり前に楽しくて、当たり前に安心感があって、当たり前に共同生活の中でぶつかって喧嘩もして、最後の日は当たり前に寂しくて涙が出た。
仲良くなったウクライナ人のゾーヤは、わたしの留学先にも遊びに来てくれた。わたしも日本に帰国する直前の5月末に、彼女の住むキエフへ。
そこにサプライズで、キャンプ仲間のロシア人のイーラも来てくれることに。わたしはびっくりして嬉しくて、イーラと抱き合ってはしゃいだ。ゾーヤの仕事中、わたしとイーラは二人でキエフの街を巡った。
キリル文字を読めないわたしはバスに乗るのも一苦労だったけど、イーラが隣にいてくれたおかげでたくさんの人と話して、たくさんの景色をみることができた。
ゾーヤはわたしたちを家に泊めてくれた。ゾーヤのお母さんも忙しいひとだったけど、時たまわたしたちのためにご飯を作っておいてくれた。あのお肉の炒め物、美味しかったなあ。
出身地に関係なく、なんとなく話していてテンポが気持ち良いなと感じる人に出会うことがある。わたしにとってはイーラもゾーヤもそうだった。
イーラはのんびり屋。ゆるく間伸びした彼女の話し方に釣られてせかせかした気持ちが鎮まってゆく。
ゾーヤは聞き上手。優しくいろんな話を受け止めてくれる一方で、冷静な視点に引き戻してくれることもある。
キエフ滞在中のとある日、わたしはチェルノブイリ原発を見学する日帰りツアーに参加した。同じツアーの参加者は「まるで映画の中みたいだぜ!」となんだか「楽しんでいる」様子で、それに憤慨したわたしは、ツアーから帰ってきてゾーヤにそれを伝えた。
「なるほど、つまりその人たちとマユは、視点がちがったんだね」
とゾーヤが言って、わたしははっとした。「自分の視点こそが正解だ」と無自覚に思い込んでいたことに気づかされた。
責めるでもなく、強く同調するでもなく、まっすぐにわたしを見るゾーヤの目。そのときお喋りしていたベランダから見下ろした街の景色、開けた空。その情景が不思議に心に残っている。
10年前の記憶を、わたしはすべてつぶさに覚えているわけじゃない。
それが今、寂しくてしかたがない。
あのかけがえのなさに、あの頃気づけなかったんだと、今思う。
「もうあの街で、3人で笑って過ごすことなんてできないのかな」と考えては涙が出て、しばらく落ち込んでは、「なんて安い絶望だろう」とイーラやゾーヤの今に想いを巡らして自己嫌悪に陥る。
地に足をつけて、未来を手繰り寄せたら、いつかまた3人で笑顔でいられる日も来るのかもしれない。
でもたぶん、「あの日のまま」ではいられないんだろうな。
あの日のわたしは、ノーテンキにただただ人と出会って語らって笑って過ごすのが楽しかった。もしかしたらそれもただ、わたしが色んな出来事や歴史に無知で無頓着なだけだったのかもしれないけれど。
「世界中に友だちをつくったら、きっと戦争はなくなるよ」
そんなの嘘じゃないか。意味ないじゃないか。
わたしが友だちを作ろうが作らまいが、世界中のみんながそれぞれ違う国に友だちがいようがいまいが、関係ないじゃないか。
国のなかにいる人々が繋がっていたって、国同士はいがみあい、利益になるかどうかや”脅威”かどうかで相手を判断し、争いはいつだって絶えないじゃないか。
そんな気持ちが自分から噴き出してくる時もあるけれど、それでも甘くて優しくて綺麗なこの言葉を、わたしは手放せない。
「世界中に友だちをつくったら、きっと戦争はなくなるよ」
別に戦争をなくすために友だちを作っているわけじゃない。
ただ一緒にいて楽しくて。お互いの中に、違いや共通点やぐいっと視野を広げてくれるモノを発見するのがおもしろくて。その人のふるさとがわたしにとっても大事な場所になっていく感覚が心地よくて。
それは決して意味のないことじゃない。ただ「それだけ」じゃ争いがなくならないし、争いを止められないんだということを、ようやく今回、肌身に痛感している。
「友だちをつくること」の先の、わたしにできること。
注意深く世界を見つめること。
今起こっている争いの奥にある歴史や背景を学ぶこと。
いろんな視点から考えること。
そこにいるのは同じ人間だということを忘れないこと。
自分にできることを考えること。
でも、本当に効果があるからというより「自分がつらいから、せめて何かすしたい」という気持ちにも自覚的であること。
自分の国の政治に参加し続けること。
声をあげること。
日常の仕事の先につながる未来も信じて、手を動かすこと。
日を追うごとに麻痺してしまいそうな悲しさや寂しさを残しておきたくて、書いてみました。
もやもやしてる人、素朴な悲しさを抱えてる人もたくさんいると思います。それを共有して対話できる人が、近くにいますように。
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できることのひとつに寄付があります。
寄付先は、そのお金が何に使われるのか、どんな人たちの手によって支援がされるのか、自分でリサーチして、悩んで考えて、決めるのが一番いいと思っています。
でも前述のように、「本当に効果があるからというより『自分がつらいから、せめて何かすしたい』という気持ちにも自覚的であること」も大切な気がします。それがダメということではなくて、「寄付したら終わり」じゃないぞという自分への戒めのような。
「寄付先をジャッジする、正解を探す」というのではなくて、自分の想いを乗せて、その先を一緒に見つめていく意思が芽生えるところに託したいと、わたしは思っています。
・UNHCR
ウクライナ緊急支援
・ピースボート災害ボランティアセンター
2022年ウクライナ緊急支援募金 ‐ All for Ukraine ‐