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いつだって、”おてんとさま”が見てる

原爆投下から、77年目の夏が過ぎ、秋がやってきました。
この夏は、大好きなひとたちの訃報に、何度も接しました。

知らせて下さった方たちと、そのひとの思い出をお話しして、「こうやって語らうことが、ご供養になる」という言葉を聞きました。

まだ、うまく実感が湧かなかったり、大好きなひとに会えなくなってしまうこととどうやって向き合っていいのかわからない気持ちもあるけれど。

わたしが一緒に世界を旅した、大好きな人のこと、お話しさせてください。

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長崎出身の、大村和子(おおむら・かずこ)さん(写真左下)。
笑顔がチャーミングで、いつもやわらかな空気をまとった和子さんとは、2013年に参加したピースボートの世界一周の船旅で出会いました。

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長崎の焼け野原にたたずむ一人の女の子の絵。
彼女は、当時17歳でした。

自宅は爆心地からわずか500メートル。食料調達のため市外に出ていた和子さんは、原爆によって、家族5人を突然失いました。

ようやく市内に入れたのは原爆投下から3日目の8月12日。焼けてしまった自宅で家族の遺体を探し、自分たちで火葬したそうです。見つけた梅干しの壺にお骨を入れて持ち帰ることになり、「その時初めて涙が出ました」と訥々と語る和子さん。

被爆者の方とお話しするということは、お話の内容を聞くだけでなく、その存在に触れることだと、それがこんなに胸に迫るものなんだと実感したのは、和子さんが物静かに、一言ひとこと語られる佇まいを見た時でした。

船で旅をご一緒する中での和子さんは、一番のお姉さんでありながらみんなのマドンナのような、一番大切にされる末っ子のような、不思議な存在でした。和子さんがふと笑顔を見せると、なんだかみんなでほっこりしてしまうような。

ヨーロッパの寄港地ですくない自由時間のなか、カーディガンや小銭入れを見繕って、お土産に買ってきてくれたこと、嬉しかったなあ。

船を降りてからも、兵庫県にお住まいの和子さんを何度か訪ねました。一度阪急の百貨店に連れて行ってもらって、美味しいケーキをご馳走になりました。なんだか懐かしい、おばあちゃんとデパートにおでかけする日曜日みたいな、幸せな時間でした。

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みんなに愛される和子さんのまとう、優しい空気が大好きです。
大好きなご家族やみなさんと、再会できていますように。


初めて被爆者のみなさんと地球一周をした時は、ただただできることがあるのが嬉しくて、みなさんは優しかったり、お茶目だったり、時に人間くさいところを見せてくれたりして、後ろを追いかけながらいろんな経験をさせてもらいました。

船を降りて数年がたち、ひとり、またひとりと訃報に接しながら、実の祖父母のような肉親を亡くすのともまた少しちがう、寂しさや不安を抱えています。


人前で、被爆者のみなさんとの出会いを話すとき、核兵器をなくしたいんだと自分の思いを伝えるとき、大好きなひとたちの顔を思い浮かべます。

その眼差しをちゃんと受け止められる自分かどうか。
自信が持てない日ほど、自分に問いかけてみます。

みなさん優しいひとだから、叱責される!と思うことはないのだけど、がっかりした顔をさせないようにしなくちゃ、と思います。
自然に背筋が伸びて、言葉に力がこもります。

「いつだって、”おてんとさま”が見てる」という言葉がありますが、わたしにとっての"おてんとさま"は、神さまというより、この大好きなひとたちです。

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できることは日々たくさんあって、いっぱいいっぱいになってしまうけれど、”おてんとさま”に見守られながら、今日も粛々と、できることを続けて行こうと思います。

今、会って言葉を交わせるいろんな人との時間を大切にしたい。

ひとりひとりの記憶を丁寧に、大切に扱いたい。



「安らかに眠ってください。過ちは、繰り返しませぬから。」


なんとなく呟くのはあまりにも無責任な、重たい誓いの言葉。
慰霊碑の石室に刻まれたこの言葉を、小学生のころから黙祷の時に、おまじないのように心の中で唱え続けてきました。

自分は今、繰り返していないといえるのだろうか。
誓いを実現するために、わたしにできることは何だろうか。


終わりのない問いを、大事に抱えていきたいと思います。

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