セトギワ
1.はじめに 幸福なことに私たちの生きる現代には数多の芸術が溢れ、望めばその多くに簡単にアクセスすることができる。テクノロジーの発達や情勢の移ろいによって姿かたちを変えたものや新たに隆盛したものなどその種類は実に多様で、受け手はそれらの中から気に入りのものを選択して楽しむことができるのだ。 ところで、昨今世界を脅かす新型コロナウイルス(COVID-19)の流行は、人々の日常を大きく変えた。日常を奪った、と言い換えてもいいかもしれない。国内の感染者は二〇二〇年一月十六日、
前回の投稿から約4ヶ月。また随分間が空いてしまった。何をしていたのだと言えば特段何していなかったのだが、ただ兎に角疲れてしまったのだ。 卒業論文の執筆に追われている。元より筆の遅い方で、これは文を書くのが苦手と言うよりは考え込んでしまうのが原因なのだが、2万字という分量にのしかかられて苦しい。そして私はこれを書き終えてもあと半年卒業できないので、ラストスパートのような感じでもない。ただ毎日自室のデスクで、ただ文字を打つのだ。 疲れてしまった。引き篭もった生活に体調不良で身
「ハイキュー!!」より日向くんです。バレーボールは観るばかりでそこまで詳しくもないのですが、どハマりしてしまいました。面白い。外出自粛も手伝って、漫画を全巻揃えて読み漁っています。人気からかなかなか売っておらず、各地の本屋を巡り歩きました。これからも楽しませてもらうぜ。
ハードボイルドをそのまま形にしたような。世紀の大怪盗の相棒という立ち位置も、桁外れの銃の腕も、たまに表れる切れた目も、かっこいい。こんなおじさんになりたいですね。殺しはいけませんが。
かっこいい主人公の代表格。抜群の推理力、プロレベルのサッカーセンス、イケメン、父は売れっ子小説家、母は有名女優。無敵ですね。羨ましい。
鬼滅の刃は読んだことはないのですが、これだけ流行しているとどこにいても目に飛び込んできます。彼女がどういう人なのか、性格も、声も、何も知らないけれど、でも心動かされた事実は揺るがない。端的に言うと、可愛い。
初期のまるっこいピカチュウが好き。上手く描けているのかはわからない。。。でも続けるのが大事だと信じて。
できそうなことはやってみようと言うことで、絵の練習も始めてみます。全くの素人なのでアナログでせこせこ描くだけですが、たくさん描いたら上手くなれるか自分を使って実験です。記念すべき1歩目は可愛い可愛いデンリュウちゃんです。色を塗るのもまだ怖いので線画だけ。
一か月ほど続いた鼻風邪が治まってきたような気がする。気がする、というのは自分の体になんとも朧な物言いだが、実際こうやって「治ったかな」と期待させて小躍りまでさせたところでまた出始めてズルズルと鼻をすすりながら生きて、というのを繰り返しながら今日に至ったのだから仕方がない。もうよくわからない。私の所有物なのだからもう少し言うことを聞いてくれてもいいものだろう。なあ、鼻よ。 オンライン授業は前期いっぱい続くようだ。通学で満員電車に乗ることがないのは利点だが、毎日机に張り付いてモ
四歩目から五歩目。このたった一歩を踏み出すのに随分な時間を要した。幸い私の文章を待っているフォロワーなどもいないからよいが、自分との約束を裏切ったようでひどく心が痛い。 この情勢の中、家庭の事情があって引っ越しをした。これが二週間前。環境がガラリと変わった。私は昔から環境の変化に弱く、季節の変わり目に気温が不安定だったり例えば合宿などで食事や寝床が変わったりすると途端に体調を崩すのだが、今回もそれだった。加えて昨年うつを経験してからは体調の崩れる「クセ」がついたように、どう
眠れないが、かと言って起きてもいられない。 こんな夜が続く。続いてきたし、多分これからも。
昨晩、自身で主宰する劇団の次回公演を中止することを報告した。 大学で演劇を始めて三年が過ぎた。学業との両立、体調不良にも苛まれながら三回の公演で五本の脚本を創った。たくさんの方に観ていただいて、回を重ねるごとに成長できていたと思う。 劇団とはいっても私以外に固定の団員はおらず、企画のたびに大学の同期たちにオファーをして公演を打っていた。同期たちと芝居をするためにつくった劇団だ。しかし、その同期たちは就活の時期。私は病気で一年遅れをとっているため暇だが、彼らの邪魔はできなか
何本書いたかを記すために、歩んだ数を題に付すことにした。今回は三歩目。 表題は、たんげい、と読むらしい。物事の始めと終わりのことで、全体の把握や推量をすることという意味もある言葉だ。「端倪すべからざる人物」のような否定を伴った形で使われることが多く、「推し量れない、計り知れない人物」という肯定的な、しかし畏怖すら覚えるようなニュアンスを含む。 加藤楸邨という俳人に関する文献を読んだ。アルバイトの一環で、自発的にではない。高校現代文のテキストに一つの問題文として登場したこの
山桜は人知れず 街の桜は目に触れて 花盛りにはそれぞれの形 刹那に過ぎてまた 明くる年を待つ 理だと思っていたこのサイクルが 今年は崩れている 街の桜も今ばかりは 山桜のこころを思おう こんなことを考えていた。センスはともかく見方は良かろうと思っていた。 しかしどうだ。人々は思ったよりも外に出たし、駆け込みだと言って花見をした。街の桜は人目に触れた。私の詩は妄想に終わった。 外出自粛は辛い。想定外の休みは嬉しいものだと盲信していたが、強いられる休日についてくる多
noteの存在を知り、自分にもどうにか使えないものかと思案し始めたのが一週間ほど前。今こうして画面と相対するまでに、徒らに時間を貪ってしまった。 まずは名前だ。これは決まっている。セトギワ。私がいつか夢を叶えたときに、その時に本名を名乗らないのなら使おうと決めていた名だ。ことあるごとにぎりぎりまで追い詰められ、何とか持ち直して生きている。私の生き方を表す言葉だ。シニギワと迷っていたが縁起が悪そうなのでやめた。 次に使い方。私は芸術を生業にしていきたい。人生の幾何かでも芸術