太巻きを食べながら、私は初めて仕事で泣いた
その日は、人生で最も体調の悪い日だった。
けれどよりによって、日帰りで四軒、旅館の女将さん取材を入れていた。
・熱も咳も鼻も出ず、風邪ではないからうつす心配はない。
・四人の女将さんがそれぞれ、取材のために時間を空けてくれている。
・一日にピタッとはまった四人のアポを取り直すのはもう無理だろう。
・今日行っておかないと締め切りに間に合わない。
東京の家を朝六時に出て、車で休み休み、伊豆へ向かった。
一人目の女将さん、無事に終了。インタビューは趣味というくらい好きだから、その間だけは辛さを少し、忘れていられる。
終わって車に倒れ込む。あと三人。
二人目の女将さんは、豆を挽くところから丁寧に珈琲を淹れてくれた。大好きな珈琲。でも今日は飲めない。心配させたくないから、体調が悪いとも言えない。ごめんなさい。言えばよかった。
あと二人。車中でまた休む。
三人目の女将さんも無事終了。インタビュー中は、元気になった気がするけれど、終わると気のせいだったことを思い知らされる。
あと一人。
四人目は、ゑびすやの女将さん。取材中、なぜか何度も玄関の方を見るので理由を聞くと、午前中にチェックアウトしたカップルを気にしていた。
「観光して帰るなら、最後にもう一度お風呂に入りにいらっしゃい、と言ったんだけど、遠慮しちゃったのかしらね」
三十分経ったあたりで、例のカップルがおずおずとやって来た。
「あのぉ、来ちゃったんですけど…」
女将さんは「ああ来た来た、よかった! 疲れを取っていってね」と、大喜びで迎えている。優しいな。
インタビューを再開。
こういう女将さんだから、お客さんからお悩み相談をよく受けるらしい。自分事のように感じ、十三枚にも渡る手紙を送ったこともあるそうだ。けれど次第に、「答えは本人の中にあると気づいた」と、おっしゃった。
ついにインタビュー終了。
すると、「ちょっと待っててね」と、女将さんはフロントに何かを取りに行った。
手にしていたのはお寿司だった。
「近所のお寿司屋さんの太巻き。とってもおいしいの。これなら車の中でも食べられるでしょう」
実はインタビュー中、「まいど〜」と、お寿司屋さんがやって来た。 ん? おかしい。普通、旅館にお寿司屋さんは来ない。
でも、まあいいかと、忘れていた。
あれは、私のための出前だったんだ。
ということは、あのとき、話の途中でフロントに入っていったのは、出前の電話をかけるためだったんだ。
さらに前、「今日はどちらを回って来られたんですか」と私に聞いた時点で、「この人は朝から何も食べていない」と、気付いてくれたに違いない。
太巻きを胸に抱え、深々と頭を下げてお別れし、最初のドライブインで車を止めた。すっかり夜になっていた。
食欲はなかったけれど、せっかくいただいたんだからと、蓋を開けたらー、
酢飯の匂いがふわーっ、
車中いっぱいに広がり、
猛烈に食欲が湧いてきた。
お腹が空いた!
むんずと太巻きを手に取り、ばくっとかぶりつく。
…おいしい。すごくおいしい。
二つ目に手を伸ばした。
気付くと、私はボロボロ泣いていた。
無事に終えられた安堵。我慢と不安から解放された。
しかし、なんといっても女将さんだ。「食べていないでしょう」って、一介の記者のために、おいしくて食べやすいものをわざわざ頼んでくれたのだ。
女将さんの優しさが身に染みた。
フロントガラスをつたう大雨に劣らず、
うっうっと大泣きしながら、私は次々と太巻きを頬張った。
前職の出版社にいた七年間、私は一度も泣かなかった。
どんなに悔しくても、どんなにうれしくても泣かなかった。泣くなんて、 恥ずかしいことだった。
でも、いまは違う。優しい人との出会いや、そこここにある本当のきれいごとに触れ、こらえようともせずに泣いてしまう。
あのときからかもしれない。二十年前の、女将さんがくれたあの太巻きから、私は私に戻っていけているのかもしれない。そんな風に思う。