ベイカーベイカーパラドクス・ラブ
すごくショッキングな朝だった。
だって、大好きなあの子の名前を忘れてしまったから。
夢でも現実でも、シラフでも泥酔してても、いつもあの子の顔が浮かんでくる。それが俺にとって良くも悪くも日常だったから。
でも、日々が慌ただしくて名前を忘れてしまった。こんなことあるのか。
あの子がどんな人かは覚えている。
駅前の売店で働いていて、痩せ型。
笑顔と八重歯が愛くるしい。
毎朝毎朝会う、50代のおばさんだ。
もともとは近くのうどん屋で働いていたときから気になっていた。
近所のスーパーで小さな子供に「おばあちゃん」と言われながらアイス売り場にいるところも見たことがある。ショックだったけど、そうだよなとも思った。
たまたま、見かけただけ。
あの子は悪くない。
孫と話す顔も綺麗だった。
なのに、今。その顔が思い出せない。
宇宙にいて、耐えられないような苦痛の日常が続く俺にとって唯一の希望が、脳内から消え去った。
ある人物を思い浮かべたとき、その人の容姿、趣味、職業、人柄、口癖まで思い出せるのに、名前が思い出せないということがある。この現象をベイカーベイカーパラドクスというらしい。
5年後、地球に戻ったとき。
あの子はまだ売店にいるだろうか。
ネームプレートを付けているだろうか。
「いってらっしゃい」
あの子の声だけが蘇る。
こんな最低な日でも、地球はまだ青かった。