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ミックステープは明日渡すから

初恋は梅雨の匂いとともに動き出した。
クラスメイトの桜ちゃんと話ができたんだ。どんな話をしたかは覚えていないけど、帰りの自転車置き場でちょっとだけ立ち止まってくれた。
「じゃあさ、僕のテープ貸してあげるよ」

このセリフを言ったことだけは覚えていた。きっと音楽の話をしたんだろう。
夜、家、部屋。両手でやっと持てるWカセットテープレコーダーをベッドの上に置いた。きしむベッドの上でCDを置いては外す。

ミスチル、サザン、スピッツ、ユニコーン、エレカシ、たまを入れたミックステープをこしらえた。
たまは僕の趣味だ。世代ではないけれど、癖になるあの歌が好きだ。

桜ちゃん喜んでくれるかな。聞いてくれるかな。そもそも渡せるのかな。
不安は的中する。
桜ちゃんはその日、約束した場所には来なかった……。

そして春が来た。あれから22回目の。
僕はもうすっかりおじさんと言われる年齢になっていて、ほうれい線も白髪もすごくて、父親そっくりで、それでいて心はまだ少年時代のままだった。

チェーンのカフェでうなだれている。片方の耳のイヤホンをどこかに落としたようだ。会社? 家?
片耳だけで聞くラジオはいつも以上に頭に入らない。

桜ちゃんのことは当然覚えていて、合法的な検索の結果、音大を出て音楽の仕事をしているらしい。
深紅のドレスが似合うピアノ奏者だと思う。演奏会の告知をリポストしていたから。
こんな店にいるはずはない。街で偶然出会ったこともない。

そして夜が来た。22回目の。
僕は独り身のまま仕事を勤め上げ、花束なんかをもらって、周りに小さく会釈をして、長年働いたオフィスを後にした。

いよいよ一人だ。
父ちゃんや母ちゃんも死んで、妹にも孫ができた。

久しぶりに公園で缶ビールを飲んでみる。「お疲れ様」というほど立派に働いた自覚も自信もない。でも、定年退職を迎えられるのがこの国の悪しき権利だ。

翌朝。目が覚める。
僕が暮らす天王洲のマンションは、下にソファスペースがある。
そこではコーヒーを飲んでいる夫婦、宿題をやろうとしている子供、日が降り注ぐ東京湾を眺めている若い成功者がいたりする。

ボーっとカウンターテーブルにいると、若い女の子がピアノを弾き始めた。
フリーのピアノが置いてあるのだ。
ショパンを弾くその子は桜ちゃんだった。
僕は忘れない。あの日の自転車置き場の桜ちゃんのはにかんだ顔を。
そこに桜ちゃんのおばあちゃんらしき人が来た。きっとその人が桜ちゃんなのだと知っていたけれど、僕は桜ちゃんの弾むように鍵盤を鳴らす手つきを見つめていた。

朝だ。
僕はダビングしたテープを巻き戻し、しっかり頭から聞ける状態に整えて、ケースのウラの紙にプレイリストを書いた。
慌てて自転車で中学へ向かう。

桜ちゃんは周りを気にしながら待っていた。
(二酸化炭素をはきだして あのこが呼吸をしているよ どん天模様の空の下 つぼみのままでゆれながら)

「おはよう」
「おはよう」
「これ、作ったから聴いてみて」
「……すごい。プレイリスト。あ、私もスピッツ好き」

あのとき、逃げなかったから、今、僕の隣に、桜ちゃんがいる。
ちゃんと、約束した、あの場所に行ったから、おしゃべりをできた。

だけど、大丈夫。逃げたらまた巻き戻せばいい。カセットテープを巻き戻せば僕はまたあの頃に戻れる。

でも、なんで「さよなら人類」を一曲目にしたんだろう。
そしたらフラれなかったのにな。





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