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君待が丘
軽自動車のエンジンをベタ踏みして、ようやくたどり着く小高い丘の先に、あたしが務める老人ホームがある。
勤務して2年。正直言って心身ともに滅入っている部分も多いが、他の仕事を探す気力もなく今のところは続けている。
孫のように接してくれるおじいちゃんおばあちゃんたちは好きだし、古株の社員さんは優しい。
安い給料のせいで好きなブランドの夏服を買うことができないことは悔しいけど、案外悪い職場ではない。――うん。うん、そう言い聞かせている。
丘のてっぺんに公園がある。
といっても雑草が生い茂っておりほとんど管理が行き届いていない。
たぶん虫とかも多いし、あまり近寄ったことはない。
夜勤を終えた帰り道。
老人らしき人が初夏の陽射しを浴びて椅子に佇んでいた。
「あ」
その人は、ホームにいる丸岡さんというおじいちゃんだった。
重い病気の方を見ているあたしはそんなに接点はなかったけれど、存在と名前だけは知っていた。
周囲に心を開かない人で「僕は昔甲子園に出たことがあるんだ」と自慢したことがあったそうだけど、それ以外は何も教えてくれないらしい。
気付いたら車を停めて、丸岡さんに近づいていた。
丸岡さんは振り返り、あたしに気がついたのか、その場でゆっくりと立ち上がった。
「あの……」
「きみ子……?」
「え」
「きみ子」
丸岡さんはまだ痴呆の気はないと聞いていたけれど、あたしと誰かを勘違いしているみたいだった。
「あたし、ホームの職員の、吉田です。ちゃんとお会いしたことないかもですけど。丸岡さんですよね?」
丸岡さんはじっと身動きをせず、黙っている。
「あの。結構今日気温上がるらしいんで、あまり無理なさらず」
丸岡さんは丘のふもとにある横浜の街並みを見ている。
「きみ子。きみ子と約束してるんです。ここで会うことになっています」
「……だからあたし、吉田です」
「知っています」
「え」
本当に驚いていたのは、あたしだった。
あたしには祖母がいて、あたしが生まれる前に家を出ていった。
昔の写真を見ると、あたしは祖母にそっくりだった。
祖母の名前はきみ子、だった。
もしかしたら、と思った。
それから、丘で待ち続ける丸岡さんと話すようになった。
きみ子さんは、野球部時代の彼女だったらしい。
卒業後も一緒に暮らし、将来を約束し合っていたらしい。
夏、秋、冬、春。
あたしがホームを辞めても、丸岡さんは丘で待ち続けていた。
祖母のことを調べてみた。岡山生まれで大阪育ち、この神奈川とは縁がない人だった。きみ子さんはあたしのおばあちゃんじゃないようだ。
1年後の夏。
久々に丘へ立ち寄った。丸岡さんに会うために。
でも、そこにいたのは坊主頭の青年だった。
草がはみ出すように伸び切ったガタガタのアスファルトから蜃気楼のようなもやがかかっている。蜃気楼みたいに揺らいで見える。
青年は振り返り、あたしに手を振った。
「きみ子」
凛々しい顔の青年のえくぼは、丸岡さんのそれと同じだ。
青年はあたしを抱きしめた。なぜか私は微動だにせずそれを受け止めた。
「待ちくたびれた……」
そう言いながら、口元が緩んでいる。
「ごめんな――」
あたしは言いかけた寸前で言葉を止め、青年を見つめた。
「待っててくれてありがとう」
「きれいになったな」
夏の熱気がフラッシュバックして、そこにはあたし以外いなくなっていた。
丸岡さんは昨日亡くなった、とホームの人に聞いた。
そしてあの丘には来週から高層マンションを作る工事が始まるらしい。
夏が始まろうとしていた。