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無響室に45分いると狂うっていうアレ


人に写真を取られるのが嫌いだ。
不格好だから。

ふざけた顔のやつとか、キメキメの自撮りならまだ良い。

だが
「ふとした瞬間の横顔」とか
「振り返った時の笑顔」とか
「遠くを見つめる憂いた顔」
とか。



マジで恥ずかしい。


直視できん。
後で写真見て、顔真っ赤になっちゃう。
すぐ消す。


決して被写体になりたくはいわけでは無い。
何なら写りたがりだ。

でも、映像媒体で映る自分の顔は、
思ったより不細工なのだ。

「唇の色、ゾンビなん…?」
「目どっかイッてもてるやん…」
「鼻まるすぎん…?」
「前歯出てますけど…」

気になりだすと止まらない。
自分は自分が思っているより不格好な気がして、不安になる。
だから写真が嫌いなのだ。


自分の顔は自分では見えない。


写真の自分がいつもより不細工に見えるのは、ちゃんと原因がある。
鏡越しの自分」しか見えないからだそうだ。

人は鏡の前に立つと、無意識に良い表情を作る。
その「最も良い状態の自分」を自分自身は見慣れているため、他の媒体で映る自分は表情の作り方がいつもと異なり違和感が生まれる。
その結果、何だこの不細工はと写真を破り捨てる事になるのだそうだ。


自己による自己認識がいかに曖昧であるか。

視覚、聴覚、嗅覚、
どれをとっても自分自身を認識するのに信用に足る要素は無い。
耳から聞こえる声も、録音だと異なって聞こえるし、自分の体臭も判別できない事が多い。

自己による自己認識は難しい。
認識ができるできないの判断も危うい。

私は思う。
結局の所、他者の意識の有無に拠るのではないだろうか?


これが首記の「無音室に45分いると狂う」に繋がるのだ。


非常に面白い。
音の響かない部屋での人体実験。

自己から発する音が帰ってこない。
そうすると頼るものが自分のみになり、不安定なその脳の仕組みでは存在の自己認識ができず、幻聴や発狂に繋がるのだろう。

自ら意識を外に向ける事よりも、外に向けた意識が何らかの形を持って自分に反響する事が重要なのだ。

我思う故に我あり。
残念だったなデカルト、2019年になってもまだまだ脳みそは解明されて無いぞ。


今、自分は生きているのか?

自分の感情に従って生き生きと暮らしているつもりの人も、実は他者の認識に操られているだけに過ぎないのかもしれない。




あ、プリクラは好きです。
可愛く映るから。


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