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第二話 『今の時代、あの時代』

 ビル群の隙間を旅人のように自由に通り去っていく風はこの季節にしては少々冷たいものだ。


 時刻は十九時一〇分。日中の晴れ模様もすっかり紺のベールに包まれ、都心ならではの明かりが目立ってきた。今日も日本の中心、東京都内は賑やかに人々が営みを紡いでいる。

 そんな五月中旬の都心は五月にしては涼しく、肌寒い一日となった。春の風物詩を感じながらも、例年とは異なる気温の変化に不意を突かれていたのだ。かつて企業戦士ともいわれたサラリーマンなどのいわゆる社会人たちが一斉に帰宅する頃、彼らの服装は上一枚ではなく、軽い重ね着や薄い長そでを身に着けているのが見てとれる。マフラーを巻いている婦人の姿もある。

 この五月らしくない気温と服装のことはきっとニュースで取り上げられていることだろう。仕事の疲れと予想外の肌寒さに彼らの足取りは早くなり、次々と駅構内に吸い込まれていった。


 一方、黒猫カフェのある都内の路地裏も同じように気温の変化に左右され、夕食の時間帯なのもあって客足は遠のき、店を後にする客が続く。ついに五人ほどの客しか店内に留まらず、寂しい風景になっていた。

 一区切りかと、黒猫カフェの店主である清川は客が利用したテーブルの片づけを始める。飲み干されたコーヒーカップ、クリームがちょこっとついたケーキをのせていた皿と金のフォーク、使い捨てのお手拭きを急かされることなく運び、台拭きで丁寧に汚れを取る。最後に乾拭きをして清潔感のあるテーブルに元通り。清川が片づけをしている間も来店者は一人もおらず、ジャズ音源のトランペットがやけに上品に聞こえた。


 片付けが終わり、キッチンに戻って軽くぼおっとしていると扉の開閉音が耳に届く。店に入ってきた客は紳士服に仕事用と思われる鞄を片手に持った六十代くらいの男性。おそらく仕事帰りに寄り道したのだろうが、とても格好がよく、英国紳士の雰囲気をまとっていて思わず目を引かれる佇まいだ。

その紳士服の男性は真っ直ぐにカウンター席に向かい、清川に視線を送り、礼儀良く会釈をする。清川は男性に倣うように同じく会釈をした。


「こんばんわ」


「こんばんわ。ようこそ、いらっしゃいました」


 男性の挨拶にいつもの接客で応える。挨拶を返した清川の表情は心なしかほころんでいるように映った。


 男性は清川が経つ目の前のカウンター席に決め、鞄と上着を右隣の席に置く。ゆっくりと席に腰掛け、低く手を組むと、来店したばかりなのに数時間前から座っていたかのようにカフェの空間に馴染んだ。まるで、珈琲に入れられたミルクがスプーンで混ぜられて一つになったように。黒猫カフェの店内の空間とやけに相性の良い男性は慣れた様子で清川に注文を伝える。


「ブラックコーヒーを一つ、お願いします」


「かしこまりました」


 清川はカウンターに背を向けて、キッチンでブラックコーヒーを丹精込めて淹れる。男性は清川の淹れるブラックコーヒーを無言で待ちわびる。店内BGMはジャズ音源からクラシックの名曲に変わり、穏やかで趣のあるひと時を演出している。


「お待たせしました。ブラックコーヒーです」


 ソーサーの上にコーヒーカップを音が鳴らないよう静かに置き、男性にどうぞと差し出した。


「ありがとう」


 清川に一言感謝を述べて、男性はブラックコーヒーを口にした。強い苦みの中にある隠されたコクの深さが、苦いだけではないと大人の味覚を魅了し心を満たしていく。驚くほどのコクの深みが黒猫カフェのブラックコーヒーの特徴で、こだわりだ。


「うん、いい味だ」


「ありがとうございます」


 再びコーヒーカップを傾け、一口飲んだ後、鼻を近づけて香りをかいだ。瞳を閉じ、芳醇な香りだとうなづく。


「相変わらず美味しいね、このブラックコーヒーは」


「そうですか。そう言ってもらえると嬉しいです」


 透き通った白の器に満ちる洗礼された至高の黒は、暖色の照明を闇夜の月のように映し出している。


「来られたのは久しぶりだから、より美味しく感じるよ」


「来店されるのはそんなに久しぶりでしたか」


「一か月ぶりかな......。これでも、来れている方なんだけれどね」


「お忙しいですもんね......。またお時間があれば、いつでもいらしてください」


「ありがとう。そうするよ。でも、まだ僕は帰らないからね。しばらくゆっくりさせてもらうよ」


「もちろん、わかってますよ」


 清川はカウンターに手を添えて微笑んだ。男性との会話は慣れ親しんだもので、非常に心が休まる時間なので仕事だとはあまり思わなくなってしまう。必ず言葉が返ってきて、軽い冗談もくれる。気を遣わずに、いつまでも話をしていられる相手だ。今日はお客さんが少ないし、たくさん彼との会話を楽しめそうだ。


 皐月の肌寒い人通りがまばらな今日は、ここ黒猫カフェの常連客である紳士服の男性・襖喜五郎(ふすま・きごろう)を客として迎えた。





 現在の時刻は十九時二〇分。季節違いの気温で客足が遠のいていた中、今からちょうど一〇分前に来店したのは常連客である襖喜五郎であった。


 彼は都内で働くサラリーマンで、性格は穏やかで冷静、落ち着きがある五十四歳だ。優しく、さりげない気遣いができるなど紳士さながらの人柄を持っている。会社で管理職をしているのもあって、言葉遣いが非常に丁寧で礼儀正しいので出会えば誰もが好印象を抱くだろう。落ち着きがあり、紳士の持つ高貴さがあるのでカフェの空間にいる姿がよく似合う。


「調子はどうだい?」


「おかげさまで何ともないですよ」


「それはよかった。自分の体調には無関心だろうから、いつも心配なんだ。じゃあ、カフェも順調なんだね」


「まぁ、ぼちぼちという感じです。順調って言うほどじゃありませんよ」


「はは、そうかい。でも、それなりにやれてるようならいいと思うよ」


 襖は客の中でも清川と親交が深いので、黒猫カフェのことやプライベートの話を共有している。いつも他愛のない話ばかりだが、若くしてカフェを開いている清川のことを自分の子のように心配している襖は必ず、最近どう? と最初に聞く。お互いの近況を伝えてから二人の会話が始まるのが当たり前だった。

 そんな襖を清川はまたかと思いながらも、毎回少し嬉しくなってしまうのが恥ずかしかった。心配をしてくれているのはありがたいが、もうちょっと自分自身のことも気にかけてほしいと清川は思っていた。


「襖さんはお仕事の方はどうなんですか?」


「ああ、まぁ......それなりにかな。良くもなく、悪くもなくって感じだよ」


「へぇ、そうなんですか」


 襖の言葉を聞いた清川の表情は微妙なもので、相手からしたら気にかかって仕方ない対応だ。


「どうかしたのかい?」


「いや、仕事の話をするときに、襖さんはどんなに進み具合が悪くても後ろ向きな表現はしないのにな......って」


 清川の返答に襖は思わず目を見開いた。なぜなら、心を見透かされたような感覚に陥ったからだ。清川との付き合いは長いと言えるものなので見透かされてもおかしくはないが、ひどく心地よくない感覚に襲われた。気を許した相手に思いたくないものであったが、隠そうとしなければいけない。だって、彼のせいではないのだから。


「......そうかな」


「はい。どんなに仕事に不満があっても、『何とか乗り越えてみせる』っておっしゃっていたので、どうかしたのかなと。悩みでもあるんですか?」


 襖は清川の真っ直ぐな目に耐えられず、目からそらすように俯いて黙り込んだ。そして、諦めたのか弱音ととれる言葉を漏らした。


「......実は、考え込んでしまっていることがあってね」


「珍しいですね。......どうされたんですか?」


「あー、いや、仕事には関係ない話なんだが、この頃、憂鬱というか、気分が晴れないことが多いんだ」


「そうなんですか。五月、だからですかね?」


「いや、それは違う。原因はあるんだ。明確に、自分で分かっているんだ」


 清川が入れたブラックコーヒーを口に含んだ後、一息ついて襖は自分の悩み・吐き出したいものを語り始める。


「......今の時代についていけないんだ」


 襖の悩みの告白に清川は驚いたのか、キャビアのような瞳を丸くした。


「今の時代についていけない......のが、悩みですか?」


「ああ、そうなんだ。どうにもなれないことばかりでついていけないよ」


 襖の発言にますます清川は瞳を丸くして、体が固まった様子だ。清川の反応に、襖は仕方ないかと視線を下げる。


「まあ、清川君の言いたいことはわかるよ。清川君にしたら、今の時代が当たり前だからね。それに」


「いえ! そういうことがいいたいんじゃなくて......。襖さんの悩んでることがすごく意外というか、悩む必要がないんじゃないかと思って」


「それはどういうことだい?」


 疑問の表情を浮かべる襖に対して、清川は弁解する気持ちで言いたいことを伝える。


「だって襖さん、僕の話す内容に詳しくないのにいつも興味持って聞いていてくれるし、否定したりなんかしないし、若いからどうとかも言わないし......。流行の物を知らなくても、中身は十分、時代についていけていると思います」


 その嬉しい答えに表情を柔らかくするも、襖は納得はしていないようだった。視線は下げたまま、遠くへ移っていく。


 清川が言うなれば、そうかもしれない。でも、そういうことじゃない。清川が思っている襖の悩みと襖の本当の悩みがまだ合致していないのが分かった。かつ、予想通りだった。まあ、そうだよね。そう思うよね、というところだ。


「はは。そういってもらえるのは嬉しいんだけれど、違うんだ。言い換えると、昔のままで止まってしまっているんだ」


「昔のまま? 過去の襖さんのままってことですか?」


「そう。昔のことが懐かしくて、忘れられないんだ」


 不器用に笑う襖を見て、ようやく清川は襖が抱えている悩みに気づいた。清川はさっきまでの頭を空っぽにして考え始めた。襖の悩みをどうにか自分が解決してあげたいと懸命に、想像の襖の心理と向き合ってみる。

 積み木を積み上げて、戻して、色を変えてみたり......応えに合う完成形を探す。でも、想像とずっと向き合っていても意味はないから整理整頓をする程度で終わらせておく。要素を並べて、分類して置くだけにして準備完了。


「なるほど......そういうことですか」


「ふふ、わかったんだね。流石、清川君だ」


 やっと襖らしい温かみのある表情を見せてくれたと安心する清川は本題に入ろうと襖に質問を仕掛ける。


「いえいえ、そんな。悩みを理解するのに時間がかかってすみません。やっとわかりました。きちんと理解しても、やっぱり意外です。襖さんは柔軟でどんどん新しいものを受け入れられる人だから。変わらなくていいと思います。でも、やっぱりそれじゃ駄目なんですよね? 不満というか、変な感じがすると」


「ああ。......五十年しか生きていない僕が言えることじゃないけれど、今の時代に取り残されている感覚を覚えるんだ。おいて行かれるような......。自分が当然のことだと思っていたことが時代の変化でどんどん変わっていって、姿が残れど見たことないように変わってしまっていていて、また別のものに成り代わっていて......。自然なことだってわかっているんだ。でも、どうしても感覚がついていけない。慣れないんだ。まだ、僕の昔の当たり前があると信じているんだ」


「まぁ、確かに当たり前だったものがどんどん変わっていっていくのは早いですよね。本当に。いつの間にか古臭くなってる。僕も、こうやってカフェをやっていても思いますよ。時代の流れは本当に早いって、節々に感じます」


 二十代の清川でさえ時代の変化に振り落とされそうになっているのに、五十代の襖ならもっとだ。例えるなら、暴風に吹き飛ばされそうになる三秒前くらいだろうか。かろうじて掴んでいるが、指が離れる寸前の状態。抵抗も身を任せる余裕もない。ついていこうとも思えないのが普通だ。


「そうだね、本当に早い。僕の世代が生きていた時代というのは変化の時代だったと思う。今、主流のものが僕たちの時代に入ってきていたし、バブルもあったからね。日本の分岐点のような時代だったんじゃないかって思うんだ。僕たちの時代に起きたことは今の土台になっていると思う」


 襖が二十代の頃は、ディスコやデジタル携帯電話・ポケベル、オリンピック開催など近代化が進んだ時代だったが、裏を見ると、バブル崩壊など日本の歴史に残る出来事が起きた時代でもあった。

 好景気に心躍らせ、人気ドラマに共感し、新しい技術に恐る恐る触れた。世の中が変わっていく過程の時代だったのだ。その時代は現代に生かされ、土台として今も息づいている。


「でも、もうどこにも見つからないんだ。あの頃、普通にあったものは。無くなってしまったんだ。いつか無くなると分かっていたけれど、ここまでとは思わなかったんだ。僕たちの時代の当たり前が、かけらが残っていると思ってたんだ。今の時代に残ってはいたけれど、もうすでに別物だ。影も見当たらない姿になっていた。それが寂しく思えて仕方ないんだ。あの時代が消えてしまったような気がして」


 珍しく顔を悲しそうに歪ませて、襖は自分の寂しい気持ちを表現していた。


 自分たちが主役だった時代はやはり思い出深く、忘れられないものだ。そのかけらが未来永劫残ればいいと思っているわけではなくて、少しでも今も残されて繋がっているといいなと思うのだ。

 でも、予想以上に存在は無くなり奪われていた。自分の時代に当たり前だったものが時代の流れにより、次々と面影を無くし、知らない人が増えていく。襖はそのことがどうしても寂しく、悲しく思えてしまう。

 あの輝いていた日々が幻のようになってしまっているようで。


「僕の生きた時代は新しいものに胸を躍らせていた時代だ。だからきっと新しいものに抵抗がないだけで、今の時代についていけているわけじゃないよ。昔を懐かしんでばかりだ」


 こんなこと言っても何も変わらないのにね、とやり切れない感情をかみ砕いたような表情は清川の心をチクリと痛めるほど悲痛なものだった。清川はそんな襖に寄り添うように気持ちを綴ってみる。


「仕方ないことだと分かっていても納得できないのはいくつ歳をとっても同じですね。やっぱり寂しいですよ。自分が一番楽しくて輝いていた時代がなくなっていくのは。お気に入りだったものが『古い』に置き換えられるのは。みんなが話題にしていたことが『なかったこと』になるのは。これからの常識だと誇りのように思っていた当たり前が『ただの始まり』になるのは。無力感と寂しさ、そして自分たちの時代が意味がないように思えて湧き出てくる虚しさ。誰も気に留めなくなっていく。忘れていくのは」


「きっと襖さんは、宝箱がいつ開けてもあの頃のままでいてほしいと思っているんじゃないでしょうか。入っている箱の中身が色あせずに当時のままいてほしいと。自分をあの頃に戻してくれるのは、あの宝物たちだけだから」


 襖は清川から出てきた言葉があまりにも自分を投影したものなので話に聞き入って、一言一句大切に受け止めるように耳を澄ませて会話を清川に委ねていた。たまにブラックコーヒーを味わいながら。店内に流れるブルースがひそかに襖を落ち着かせる。


「あの時代のものよりは今の時代のものの方が良いものが多いでしょう。そうじゃなければ、無くなったりなんかしません。じゃあ、襖さんは今の時代のものが、新しいものが正しいと思っていますか?」


 目線を合わせてくる清川に、襖はいいや違う、と答えると、そうですよねと微笑んだ。


「昔の物の技術は今でも使われているように、今も役に立っているんです。必要とされているんです。だから、無くなってしまったとしてもまだ残ってます。そして昔を生きてるからこそ、できることがあります。だから、そんなに悲観しないでください。若い人からしたら、宝の宝庫ですよ。襖さんの知識と思い出は」


 一連の清川の意見を聞いて、襖はなんだか浄化されていく気がした。肩の力が自然に抜けていく。自分の体にたまっていた不純物が清川の言葉で逃げていったみたいだ。

 相変わらず不思議な力を持っているんだね、と襖は呟いた。大したことない悩みで凝り固まった頭はすっきりして爽快な気分だ。


「襖さんの思い出は、今の時代では大切な資産です。すごく大事で貴重なものです。だから、変わらないといけないなんて自分を責めないでください。僕は襖さんの話が好きです。なので、次来るときはしんみりした顔で来ないでください。約束です」


 襖はここでやっと清川が心底自分のことを心配してくれていたのだと察することができた。普段飄々としていて笑顔で、つかみどころがない彼なので、悩みがあろうとも様子は変わらないと思っていた。

 でも、それは間違いだった。襖の思い込みであった。やはり経験に頼ってはいけない。昔も大事だが、今を生きていないと駄目だ。常に前を向いて、今を見つめなければと改心した。


「ありがとう。そうか、僕は青春と呼べる日々が、大好きだったものが『そんなものなかった』と否定されるのが嫌だったんだな。自分が一番輝いていた時代が否定されると、自分まで否定された気持ちになるから。それがどうしても嫌だったんだな」


 元気そうな襖の顔つきを見て、清川はその顔を心から望んでいたと襖の視界の外で満面の笑みを浮かべた。父親の元気な姿を喜ぶ子供に様変わりした清川が襖の目に入ることはなさそうだ。襖はすべて悩みを吹き飛ばしたのか、清々しい表情で清川を捉える。


「そうだね。今に馴染めなくても私にもできることがあるし、こういう下を向いているような姿勢は私らしくないな。うん、そうだ」


 ここ数か月の悩みが解消されたからか、襖は早く帰りたくなったらしくすぐに立ち上がり、ごちそうさま、と上着と鞄を手に持った。


「話を聞いてくれてありがとう、清川君。心が軽くなったよ。迷宮から抜け出せてよかった」


「それは......よかったです。次来るときは必ず笑顔で来てくださいね。後ろ向きな襖さん、お店に入れたくないので」


 冗談めいた本気を言ってみると、襖は面白がるように口角を上げて歯を見せた。襖にしては、ずいぶん珍しい表情だ。


「そうかい、肝に銘じておくよ。じゃあ、また」


 出入り口の扉の前で襖は別れの挨拶をして去っていく姿を、清川は扉の正面にあるレジから見送った。


 清川は襖の悩みが解決できて、内心安心していてやっと肩の荷が下りた心情だった。


 気を取り直そうと、清川は用がないかと客のもとへ小走りで向かっていった。





 午後九時半。例年よりも肌寒いせいか、空気が澄んでいて都内の夜空が数倍きらめきを増しているように思う。


 今日も身軽で気ままな影はお気に入りのビルの屋上に現れ、天体観測をしている。星を見つけては、まだ知らない星を探し出そうと目を凝らす。


『まさか、あの人がこんな悩みを持っているとは思わなかった』


 その人物は影にとって特別な存在なので、悩みを抱えているとは想像もできなかったのだ。


 意外だったが、でも、それもそうかと思う。性格や好みが違うだけで、結局同じなのだ。だから、抱えていて当たり前だったんだ。


『でも、もうやることはないな。心配なんていらないな。だって、壁を打ち破る力は、能力は持っているんだから』


 もともと才能に優れているから、原因が分かれば大丈夫だから、気にする必要はない。


 ただ待っていればいいだけ。それだけだ。影がすることは。


 天体観測はいいが、体をなでる冷えた風が冷たいので、そろそろ帰ろうかと影は屋上から飛び降りた。


 そして、誰にも追う隙を見せずに夜の路地裏に戻っていった。





 翌日。平日はあまり客が訪れない午前と昼の間の微妙な時間帯。しかし今日は祝日で、昨日とうって変わっての快晴なのもあって店内にはほぼ満席状態に客が来店していた。

 この時期、五月病なんて言ったりもするが、気温の変化が激しいのも原因にあるのだろう。ほとんどは困ることが多いが、たまには歓迎したいものだ。いい条件がそろっている日なので、売り上げよくなるはずだ。一人で店を回しているので大変ではあるが、仕方ない。


 客席の通路を歩いていると、仕事の資料を広げていると思われる女性がカプチーノを堪能していた。お洒落な柄やデザイン案のラフ画が並んでいる。


「お仕事ですか?」


「ああ、そうなの。最初は職場で作業をしてたんだけど疲れちゃって、場所を変えようとここに来たの。まぁ、寄り道してきたから普通に疲れたんだけど。そういえば、面白い人を見たわ」


「どんな方ですか?」


「仕事用の本を見ようと思って本屋に行ったんだけど、そこで六十代くらいの男の人が店員さんに『若者の文化について書いてあるものはありませんか。若い人たちのことを理解したくて』って聞いてて。今の時代、こんな人がいるんだって驚いたわ」


「へぇ、価値観が柔軟な方なんですね」


「今の六十代くらいの人って頭がカッチカチの人ばっかりだから、こういう人となら仕事したいって思ったわ。あ、ついでにおかわり頼んでもいい?」
「はい、かしこまりました」


 一応注文票にメモを取ってから女性に一礼をしてキッチンへ戻る。

 カプチーノは女性を中心に人気で、黒猫カフェでは隠れた定番でもある一杯だ。


 やっぱり大丈夫だったな。


 清川の小さな悩みでもあったものまで一気にどこかへ吹っ飛ばして、誰かの爽快で明快な視界が開けた感覚がうつってきたが今はいらないくらいだ。


 また来てね、絶対だから。


 次来るかはわからない水無月を、雨の降るのをはしゃいで眺める幼稚な心で待ちくたびれよう。



第三話へ、続く......。

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