第六話 『十人十色』
台風の襲来を受け止めた日本列島は、惜しみなく居座る激しい残暑に悩まされていた。先月よりは幾分涼しいものの、汗ばむ気温というのは変わらない。信号待ちしているサラリーマンもハンカチを押し当てるように拭いている。最近流行りの小型扇風機もまだまだこれからも出番は多そうだ。交差点に人が流れ込むと、一気に湿度の強大さを感じる。すれ違いざまに風は起こるが意味はない。お互いに嫌な気分で一瞬の関係を切る。次は花粉かと嘆いている人もいるそうな。
今年も残り半分かと呟いたのはいつだっただろうか。それも過ぎ去って秋が到来している。勉強の秋、読書の秋、スポーツの秋……どれも聞き飽きたものだが、これらが指しているのは来月からだ。長月は夏のすぐ後。親戚のようなものだ。だから、けして混同しないようにしなければならない。しかし、トンボが飛んでいくのだけは秋の月と認めてもいいのではないだろうか。
肌寒さがお留守番している季節の黒猫カフェは今日も通常営業だ。お客さんの入りも通常。メニューの注文傾向も通常。滞在時間も通常。とにかくいつも通りの黒猫カフェが店内にはあった。店長の清川は嬉しいような悲しいような気持でいた。清川の予想通りではある。黒猫カフェの一番安定している時期はちょうど秋の季節で、ホットもアイスもトントンで出ていく。どの時期でも同じ温度がいいというこだわりを持つ人は一定数いるので、冬でもアイスを求めるお客さんは存在する。ごく一部にはなるが。懐かしのバラードが雰囲気を格上げしている客席はおよそ半分ほどの入り具合だ。テーブルの片づけをしていた清川は周りを微かにとらえながら思う。
秋にはカフェに来たくなるよなぁ。分かる。分かりますよ。
勝手に共感をしていた清川は、真向かいのテーブルの客から声をかけられていることに気が付いていなかった。二回目の投げかけで反応することができた。
「ねぇ、店員さん」
「え。あ、はい! どうなさいましたか」
「個性ってなんだと思う?」
「こ、個性ですか……?」
「うん。そう。個性」
突然振られた話題についていけない清川。振った側の制服姿の少女は淡々とした表情で清川の返事を待っている。制服からして少女は高校生で、白肌に茶髪のショートボブに赤い髪留めをつけている。頬杖を突きながら清川を見つける姿は堂々としたものだ。脈絡もなく清川に話しかけた少女に他の客も動揺しているが、この店の特性なのか少数派らしい。未だなんて言ったら満足してもらえるのか思考を巡らせている清川は、もう埒が明かないととりあえずの答えを決めた。
「自分にしかない色……ですかね」
「ふーん。つまり、十人十色ってこと?」
「ま、まぁ……そうです」
わざわざ遠回しに言ったようになってしまったと発言の後、真っ先に反省をした。なぜこんなにも失敗できない責任感が湧いているのか原因不明だが、きっと清川の性ということにしておこう。清川の回答を聞いた少女は何となく納得した感じで照明を見上げる。そして俯き、鉛筆を手で回し始めた。先ほどの質問からの流れが何のためなのかさっぱりな清川は正直に尋ねてみる。
「あの……どうして急にそんな質問を私にしたのですか」
「分からなかったから」
「はあ……?」
「こんなこと、思ったことなかったんだもの。知らないから、誰かに聞くしかない」
「なるほど」
少女の言い分が腑に落ちた清川は、少女に対して少し興味が湧いてきたので反対に問うてみた。少女は何やら照明デザインに夢中らしいが。
「じゃあ、どうして僕に訊こうと思ったの?」
「だって、答えてくれそうな人だったから」
こちらを向いた少女の返答に清川は目を丸くした。誰かに丸裸にされていたような感覚が全身を走ったからだ。生まれてこの方、驚くというものをほとんどしてこずに驚かしていた立場の清川にとって人生規模の衝撃と言える。少女の瞳を観察してみると、他の人間とは違う視点を持っていると確信を得た。清川はますます少女への興味を深くした。
店員と客という関係性なのに、一人称について気にかけないのもなかなかいないなぁ。
「そっか。どこら辺が?」
「どこら辺と訊かれても……。雰囲気」
「ふむふむ……」
「そんな考えること、ある?」
たった数回のやり取りで何かを脳内で整理している様子の清川に、少女は謎めいた感情を抱いた。日常会話程度の内容なのに、何がそんなに考える必要があるんだと思っているのだろうと清川は理解していた。少女の疑問に正解を出すなら、清川は少女の思考について自己満足で解き明かそうとしていた。これまでの少女とのやり取りで、清川は少女には普遍的ではない個性を持っていると感じた。なので、それがどういうものか知りたい。ただ単純な理由だ。興味は探求へ移行し、新たなフェードにたどり着こうとしている。
「あるよ。たくさん」
「へぇ……じゃあさ。もう少し訊いてもいい?」
「いいよ。もちろん」
卓上を滑らせていた布巾を真っ黒なエプロンの腰ポケットにしまい、清川はにこやかに頷いた。
清川と女子高校生と思われる少女の間で密かに意図が結ばれた時には、タイミングを合わせたように黒猫カフェには二人のみだった。時刻は13時半。ランチタイムを終えた人たちはオフィスへ戻っている時間帯に針は進んだ。清川は全部の客席の片づけを終えたので少女の目の前の席に座った。引き続き、彼と彼女はお互い通じ合った状態で会話を楽しんでいくようだ。
「それで、訊きたいことなんだけど、『自分らしさ』ってなんだと思う?」
「自分らしさ?」
「そう。最近よく尋ねられるの。行く先々で」
話している少女は呆れて疲れてしまったように清川は感じた。相当回数を積んでいるのだろう。もう関わりたくないみたいだ。行く先々がどこなのか気になるところだが、繊細な部分に当たりそうなので飲み込む。
「そうなんだ。自分らしさか……。なかなか難しい質問だね」
「それだと困るんだけど。一生、分からないまま終わる」
「責任重大だな……」
少女の分かりやすい大げさな表現に清川は苦笑いをした。でも、本心なのだ。自分らしさを知っているってことは、周りの人間だからこそというのと、自分だからこそという二つで構成されているから全貌を掴むにはどちらも必要だ。なので、たとえ清川が少女の求めるものを与えられたとして、少女自身が答えを掴まないといけないのだ。しかし、少女はそれを知らず清川に託してしまっている状態だ。清川にしたら、重すぎる荷物だ。
「だって、分からないんだもの。教えてもらわないと」
「確かにそうかもしれないけどさ……。君自身で考えないと分からないのが『自分らしさ』なんだよ」
「じゃあさ、店員さんの『自分らしさ』って何? きっともう知ってるんでしょ?」
「僕の自分らしさ……そうだね。人に興味があるお節介、かな」
「お節介焼きには見えなかったけど、今の状況だし、そうだとしか言えないね」
「あはは、そうだろう?」
若干皮肉気味の少女に、清川はまるで己の個性を褒められたように笑った。乾いた笑いではあったが、清川は少女へ優しい視線を寄せた。
「どうやって知ったの?」
「う~ん。やっぱり人から言われたりすることを元にイメージが分かってくるかな。自分で気づくのは、習慣とか癖だね」
「習慣や癖……。癖かー。そういえば、あるかもしれない」
「どんなの?」
「それは言わない」
「どうして!?」
「だって、ただの店員さんだもの。言うわけない」
清川は足場を一刀両断されて崖へ落ちた気分だ。会話を通して、少女とは打ち解けてきた自信があったのにもかかわらず突き放されてしまった。思ったよりも少女は他人とのかかわりを持たない子なのかもしれない。人との距離を縮めるのに技術があると心の中で自負しているのに自分自身にがっかりだ。
「どうしたの」
「いいや……何でもない」
「でも、それだけじゃわからない。それだけで他人が分かる、理解できる『自分らしさ』になるの?」
先ほどとは一変、少女は真剣な面持ちでテーブルを直視した。何らかの事情で清川に接触してきたことは承知済みだったが、ここまで深刻そうだとは想定してなかった。少女はおそらく性格に似合わず言葉を連ねる。
「自分自身が分かっていても、他人に分かってもらわないと意味がない。目に見える形になってないと、結局同じ」
「……」
「他人が分かったうえで、認められないと……それはきっと『自分らしさ』にはならない。なりえない」
「そんなに他人の目が気になるの?」
「……違う。そうじゃない。勝手に見て、評価してくるだけ」
私はそれにさらされているだけ。巻き込まれているだけと言いたげの少女は数十分ぶりに半分残ったオレンジジュースのストローを吸った。そして、ため息をついたのは音にならない弱音のようだった。清川は傍観しているだけで悲しくなる感情に包まれた。置かれている環境が少女へ悪影響を及ぼしているのだろうが、清川は干渉するわけにもいかない。自分で入った世界の可能性があるから。無力感に苛まれる自分を押し殺して、少女へ語りかける。
「とにかく自分について知りたいってことなんだね。じゃあさ、僕が君の鏡になるからさ。いくつかの質問に答えてみて」
「……わかった」
これから何が行われるのか不安がるように清川への熱視線をそらした少女は静かに了承した。
「それでは始めるね。まずは、君がよく考えていることは、君にとってとても楽しいこと?」
「……うん。楽しいと思う。よく考えているし」
「ありがとう。次に、君が自分以外のことについて気にしたりする?」
「気にしない。だって、それは私じゃないから」
「なるほどね。最後の質問。君のこれからはどうなっていくと思う?」
「それは分からない。未来のことなんて分かるわけがないもの」
「うんうん。これで終わりだよ」
「もう終わりなの?」
予想以上の清川の質問の種類が少なかったことに少女は驚きを隠せない。非常に簡単で短い時間に済ませられるものとはいえ、たったの三つだけとは思わない。自分のことについて知るのだから、より難解なものであると確信していただけに反動は大きい。少女のリアクションに、清川はなぜかほっとしながら会話を続ける。お得意の手ごたえを掴んだのかもしれない。
「うん。終わりだよ。だいたい君のことが分かった」
「本当なの、それ」
「かなりざっくりだけどね」
「で、結果は?」
「じゃあ、言うね。君は好きなことに対してとても情熱を注ぐタイプで、我が道を行く人だね。いい意味で他人や周りの雰囲気に飲まれずに行動することができる。ポジティブかネガティブかどっちなのかと世間では頻繁に話題に出るけど、君の場合はどちらでもないね。ただ今ある状況に自分の意志で判断して道を切り開いていく……といった感じかな」
「へぇ……そうなんだ」
清川なりの自分の人物像について聞けた少女は面白がる顔をして口に弧を描いた。清川を完全に視界から外してしまっているが、隠し事を悟られないようにしているのではなく、心の中で清川の言葉を咀嚼している行為だった。カフェの窓から店外の様子を見つめる少女はとても生き生きしている気がした。清川は一安心して肩をなでおろした。しっかりとかみ砕いたのか、少女は清川を再び視界に入れ、言った。
「なるほどね。なんとなくわかった気がする。店員さんが言うには、あとは自分自身で見つけないといけないってことだよね」
「ああ、うん。よく覚えていたね」
「まぁね。ってことで、今考えてみるよ」
「分かった。静かにしてるね」
そのあとの一秒間、清川は息をするのを忘れてしまった。理由は、少女の驚異的な集中力だった。導入までの時間があまりに刹那で、深い集中に入るまでもそのまま一瞬だった。清川は少女の特異性に本能的に気づいていたが、こういうことだったのかと恐ろしくて逆に笑ってしまいそうになる。長く生きてきてこれほどおののいたことは指で数えるほどだ。むしろ光栄に思えてくるのが天から授かった凄いところである。五秒ほど経っただろうか、少女はゆっくり顔を上げて清川と目を勝ち合わせる。火花が散るように眩しかったことを清川は記憶に焼き付けるだろう。
「うん。分かった。ありがとう。これ、お会計ね」
集中力を使え終えて、流れるようにミニ財布からお代ぴったりをテーブルへ置いて荷物を持った。待ってほしいと止める清川を横目に、少女はもうカフェの扉前まで進んでいた。必死に追いついた清川を前に少女は微笑んだ。
「ありがとう、店員さん。じゃあ、いつかまた」
そう一言だけ残して路地裏へ消えていった。最後まで主導権とを取られ、見送りには呆然とさせられた清川だった。
夜の繁華街は外の気温は関係ない。むしろ、寒くなるほど熱気を増すのかもしれない。
そんな不思議な街から少し離れた路地裏で、影は夜闇でキャットウォークをきめている。優雅に足を交互させて尻尾を揺らした。
『今日はやられっぱなしだったな。表現がおかしいけどさ』
『気づかぬうちに、調子に乗っていたのかもしれない。自分なら解決できるって』
『本当に、よくないな。見習わないと。常に先ヘ前進する人を』
早くオアシスに行きたいのか、飛び出すように星々に照らされる路地裏を走り去っていった。
不思議な少女との出会いから二週間後。営業中であるが暇を持て余していた清川はキッチンの上にあるテレビをふと見上げた。カウンター席からは分からない角度に設置してあり、いつも無音で流している。お客さんにばれないよう、時折お昼の情報番組などを視聴している。たまたまつけていた情報番組の特集で、これからの日本を代表するであろう天才画家が取り上げられていた。その人物はとても若い頃から才能を発揮し、国内コンクールを総なめ。かつ、海外のコンクールでも金賞受賞を何度も経験した異例の経歴の持ち主だった。なにせ初めてテレビ番組取材に応じたらしく、この特集が何よりも大きく報道されている。取材に一切応じないことでも、全国的に有名だったらしい。素顔は非公開での取材らしいが注目度はとても高い。
「へぇ……すごいなこの子」
そんなすごい子がいるんだなと、月並みでごく普通の感想しか清川からは出てこなかった。あまり芸術の分野には疎く、興味関心も持てたためしがないのでどうでもいいような素振りで軽くスルーしてしまった。ぼーっと画面を一点集中していると誰もいなかった店内に、扉が開いた合図である鈴の音が響く。清川は慌てて走り出し、客を出迎える。
「ようこそ。いらっしゃいませ」
「……」
黒猫カフェに来店したのは、品があり伝統的な着物を召した若い女性だ。大学生くらいの女性なのでカフェが好きな世代だななんて清川は考えていたが、対照的に女性はきょろきょろと店内を見渡して落ち着かない様子だ。どの席に座すか訊こうと口を開くとものすごく緊張した面持ちで清川を見る女性。何故警戒化されいるのか分からないが、とりあえず警戒されないようゆっくりと席へ案内した。注文は後で声をかけるとのことで再びキッチンに戻り、あの少女が上手くいくことを願った。
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