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第五話 『意識と意欲』

 午後二時。毎年やってくることなのに、毎回繰り返していることなのに全く学習しないのが人間なのか。今日の電光掲示板の主役はあれで決まりだろう。


 気温という概念が溶けてしまいそうな熱帯地になった都内は、絵にかいたような快晴の下、どっぴんかーんを通り越してどんよりした空気がアスファルトをなでていた。炎天下とはこういうことだったかと、日本中がため息をついている。胸が焦げ付くほど思い知っていたのに、してやられた気分なのは、文月が涼しくて拍子抜けしていたからだろう。四季なんてあったもんじゃないと嘆くのも無理もない。


 『きっと、織姫と彦星が渡った天の川が、下まで降りてきたんだ』。冗談でセンスのある人が言っていたが、それを否定する人はいなかった。小さなヒーローが活躍していたころから数日で、季節が逆戻りしたのだ。地球温暖化のせいらしい。でも、やはり一年に一度しか会えないことは変わらず、涼しさも一瞬の星の瞬きで、もう跡形もない。気温30度、湿度80%、風はないし、雲の出番なしの灼熱地獄。追加で、蝉の声が大合唱。夏の風物詩てんこ盛りで、画面越しの女性アナウンサーが室内という安全地帯にいるのことに恨めしい感情を抱いてしまうのは、最後であってくれと信じたいほどだ。交差点の人々は誰もかれも同じクローンに見えるのは錯覚だ。


 そういうことで、誰しもKOされている。世界的な環境問題が原因だとされる熱地獄に襲われた時、どのような行動をとるのかは火を見るより明らかだ。まとわりついた熱気と汗を文字通り吹き飛ばすべく、涼しさを求めて向かうのは飲食店。


 ならば、やっぱり黒猫カフェは混雑している......かと思えば、店内に閑古鳥が鳴く。4、5人しかいない。どうしてこんなことになったのかは簡単な理由である。


 路地裏にあるので比較的涼しさを感じやすい立地にある、隠れ家的カフェ・黒猫カフェは清川が一人で経営しているので数分間に大勢の客が来店すれば目が回りそうな忙しさになる。席への案内から注文の説明、すでにいる客の様子を窺いながらもあと片付けを終わらせないとならない。なので、天気予報には敏感なのだ。朝9時に、日課であるテレビの天気予報を見た時には、きっとたくさんのお客さんが押し寄せてくるだろうと気合を入れたのだが、空振り三振。


客の役に立てるような店でありたい気持ちが一番だ。それに、繁盛したら一人では手に負えないと分かっているけれど、やはり多くの人に来てもらいたいのがカフェの主人としての本音だ。
アイスコーヒーやフロートの準備をいつもよりも増やし、空調の設定の温度を低くし、音楽の選曲も爽やかなナンバーに変えたのに、ぽつりぽつりの客の入りように清川は脱力した。あんなに朝から念入りにお迎えする用意をしていたのに、残念だ。
清川はキッチンにある三つ足の簡易椅子に座り、ため息をつく。


「逆に暑すぎて、お客さんが来ないことを想定してなかった......」


 それはそれは大々的に、どの報道番組も特集を組んで注意と警戒を促していたのだ。用がなければこんな天候、逃げ隠れるのが最善策だ。あまりにも対策を考えこみすぎて冷静に周りを見えてなかったようだ。


 数時間の努力が水の泡になって、あまりにもがっかりで額に手を当ててしまう。準備したことに後悔はないが、数人でも営業時間の間は常にアンテナを張っているので疲労はある。余力を残せずに、今日一日働くことに軽く絶望しているのだ。なぜならば、先ほどの通りである。お客さんに対する責任感と淡い期待に墓穴を掘った清川は、もはや弱音もつけない心持ちで頭を抱えた。


 いや、そんなこと考えているのはいけないな。こんな暑い中でも、来てくれたお客さんがいるんだから、精一杯接客しないと。来てくれているお客さんだけでも満足させられるのなら、早朝からの準備も無駄じゃない。
 
 
 「すいませーん! 注文いいですか?」
 「はい! ただいま伺います」
 
 
 一人虚しく抱え込んだ失敗を消化しきれずにいたが、目の前の仕事に集中することにした清川はさっそく呼ばれた客のもとへ足早に向かった。
 
 
 
 ◇
 
 
 
 お客の要望を聞き終えた清川は、カウンターに腰を下ろし窓の外を眺めていた。本当に暑そうだなと、室内にいても蒸し暑さを感じ取って気分が下がる。黒猫カフェがガラガラなのも当然だ。こんな鉄板の上みたいなアスファルトを歩いていたら自分の身を案じてしまうに決まっている。体力配分は失敗だが、高音の女性歌手が歌う恋愛ナンバーは黒猫カフェらしくなくて新鮮で面白い。お客も、同じことを思ってくれているだろうか。そんなわけはないが、同じだったら勝手に嬉しく思う。数少ないお客さんの対応もなかなか楽ではないなと思い耽りながら、キッチンで洗い物をして一つずつ仕事をこなしていく。


 確かに気合が入っていた中、予想の10%ほどしか来店してもらえなかった傷は浅くないが、これが本来自分の目指していたものだと気づいた。たくさんのお客さんで賑わう店内もとても和やかに感じられていいと思う。しかし、僕の好きなカフェは、僕の目指しているカフェはまったりとそれぞれの時間を過ごせる静かだけれど心地の良い雰囲気が漂う空間だ。ある人は一口の珈琲を嗜み、ある人はお喋りに花を咲かせ、ある人はまじまじとテーブルに置かれた参考書を見つけてペンを走らせている。同じ空間にいるけれど、交わることはない。この落ち着いて自然体で居られる空気を共有しているのが好きなんだ。それを黙って眺めているのが幸せなんだ。原点に立ち戻った気分にあの日々を思い出す。
 
 
 『おや、こんなことろでどうしたんだい? どこから来たの?』
 『よくそこにいるね。ふふ。気に入ったのかい』
 『しばらく会えなくなるね。君と会えなくなるのは寂しいな』
 『クロ』
 
 
 「……はっ!」
 
 
 思い出を思考でなぞっていたら、いつの間にか目を閉じていた。まるで眠りにつくかのように穏やかに浸っていたらしい。


 あぁ、駄目だ。仕事中なのに、走馬灯みたいに過去のことに夢中になるだなんて……。気合入れすぎてもう疲れてしまったのだろうか。


 脳内を切り替えようとカウンターからお客さんの様子を観察する。ぼけーっとしている間に注文や要望があったらとんでもないことだ。目立たないように左右手前奥くまなく見渡したが、特に待ちそびれている人はいなさそうだ。良かったと少し安心して椅子に座る。自分がこんなにも仕事中に集中力が切れてしまったことはなかった記憶がある。黒猫カフェを始めて5年ほどになるが、体調管理は万全にしているものの何日かは崩してしまった日はあった。だが、仕事中はどんな日も完璧にできていたと思っている。それなのに、予想が外れただけでこんな風になるのかと疑問が生まれたが深く追求するのはよくないなと原因究明はやめた。


 仕事モードを取り戻すため、しばらく店内を観察していくことにした。今日は常連さんのみの店内で、馴染みのある人ならより過ごしやすい空間になっているだろう。頼まれるメニューは所謂いつものなので作業の面ではとても手際が良かった。それぞれの過ごし方も変わりはないようで、こっちまで安心してしまう。なんて自分は恵まれているんだろうと清川は微笑んだ。
 

常連さんのみの店内でとある客に目が留まった。


 年齢は20歳くらいの男性。短い黒髪に、スクエア型の眼鏡をかけている知的で真面目そうな人だ。いつもノートに何か書き込んでいるので、おそらく大学生で勉強をするために黒猫カフェを利用してくれている。今日は入り口から一番近い窓側の席に背を向けるように座っている。一か月前から度々来店しているのを清川は覚えていた。席に案内されるとブルーマウンテンを頼んで、その一杯でほとんどの時間を過ごす。毎回真剣にノートに向かっているのが印象的だ。見た目に反せず、中身も真面目らしく、何もかもきっちりしている。二杯目も注文することもあるが、めったになく、長時間いるのによく足りるなと印象的なお客さんだった。


 はっきり言うのもなんだが暇であるし、男性に対してなんとなく好奇心が湧いた清川は思い切って声をかけることにした。
 
 
「こんにちは」


 清川はゆっくりとお目当ての男性の席に近づいていき、興味半分、緊張半分で真剣に参考書を読み込みノートを書き込んでいる青年を振り向かせた。すると、集中の糸が切れたように一つ息を吐いて清川を少し見上げる。初めて両者は視線を合わせた。気まずい距離感はぬぐえないが、その瞳は清川とほぼ同じ色でなんだか親近感を抱いた瞬間でもあった。
 
 
「……何か御用ですか」 
「あ、ごめんなさい。勉強中でしたよね」


 勉強中なのにもかかわらず清川に話しかけられたので少し不機嫌そうだが、おそらく顔の系統というか表情がきつく見られやすい人だと思うので怒っていることはないと思う。なので、特に気にせず会話を進める。だが、邪魔をしてしまったことは本当なので申し訳ない気持ちを伝えつつ、何をしているのか尋ねてみる。
 
 
「最近よく来てくださっているなと思いまして。何をされているのか気になったんです」


 一応清川は青年の様子を窺う。青年はとても驚いた顔をしていた。
 それは当然のことだ。カフェの店主で自ら話しかけに行く人間なんてまずいない。きっと自分くらいだと思う。僕も誰彼構わず話しかけにいっているわけではない。もちろんお客さんの時間を一番に大切にしているし、ゆっくりとコーヒー一杯を堪能できるような店内づくりをしているつもりだ。でも、僕は特に常連さんに対して友達というか知り合いの人だと思っている部分がある。だから、何か悩んでいたら相談に乗りたいと思うし、寂しそうにしているのならそっと隣で寄り添いたいと思う。だから、こうして時々話しかけに言ってしまう。直すべきなのかもしれないけれど、このままでいたいなと勝手ながらにいる。


 青年は一回、目をそらしたその後に返事をした。


「ああ......そうですか。そんな特別なことはしていませんが」
「いつも熱心に取り組まれているので、どんな勉強をされているのかと思いました」
「そうですか」


 会話の谷がやってきて清川は危機を感じた。
 まずい、このまま会話が終わってしまうと。せっかく話しかけて反応も悪くなかったのに、結局何の勉強をしているのか知ることができずカウンターに戻るのは惜しい。それに、彼も居づらくなってしまうだろう。カフェの店主としての立場と清川蛍という人間としての気持ちをどう天秤にかけていけばいいのだろうかと悩ましい。店主スマイルを保ったまま高速で脳みそを回していると、どう転んでもすっきりした雰囲気には戻れないのでいっそ思い切った方法でいこうと閃いた。


 なので、ちょっと強引で嫌がられるかもしれないが行動で表してみることにした。


 清川は青年に断りを入れずに、開いていた隣の席におもむろに座り、窺うように彼の手元を覗き込む。ノートの一面にびっしり用語やカラーペンが書き込まれ、非常に美しく整われている。どんな勉強をしているのか文字列を追いかけると、難しい用語が羅列していて、清川は何を学んでいるのかわからなかった。


 難解な領域に足を踏み入れてしまい数秒固まっていると、青年は突然告白した。
 
 
 「僕、国家公務員になりたいんです」

 
 急に青年の夢を告白された清川は一回、時が止まった。何の勉強をしているかを知りたいがために失礼な行いをしているので、あからさまな不快感を感じていると訴えられるはずなのに。まさか大切な夢を話してくれるとは、急展開というものでしかなかった。普段の様子からはかなり真面目な性格で、一人の人間として自立していて自分の意見をしっかり持っているという印象だった。自分の理想などが強く、他人に乱されたくない気持ちが強いのかなと想像していたのでとても意外だった。


 何と返したらいいのか分からず青年とお見合いしていると、青年は幾分戸惑いながらも、ノートを清川の方へ動かす。
 
 
 「そんなに気になっているなら、どうぞ」


 清川はお花が咲くような満面の笑顔を披露し、青年のノートを遠慮なく見つめ始めた。



 青年から勉強に使っているノートを見せてもらうことができ、無事に許可を得て、未知のものを目にした子供のように清川の瞳には書き込まれている隅々の文字が浮かび上がり光って映る。
 先ほどは頭が痛くなるような紙でしかなかったのが、なんだか古代の秘められた財宝へ導く暗号のようだ。理解するには長い年月が必要になるけれど、冒険者になってわくわくが止まらない自分がいた。楽しいってこういうことなんだろうなと感じた。勉強していることについて軽く説明を受けても理解は深まらなかったが、面白いほど興味をひかれる。説明も、結論から始まるとても簡潔なものですっと入ってきた。勉強への熱量が本当によく伝わってきた数分間だった。うっすら青年にひかれている雰囲気は伝わっていたが、ここ何日か謎に包まれていたこのノートが自分の手元にあり、自由に触れるのが清川にとってとても嬉しかったのだ。
 
 
「へぇ~! なんか法律とかのことをノートに書きこんでいたんですね。私にはよくわからないですが、とても細かく記載されていて質の良さを感じます」
「ありがとうございます。今日は、法律の知識をより多く学ぼうと思いまして励んでいました」
「『今日は』ということは、法律以外のことも勉強しているんですか?」
「ええ、そうです。政治や経済、数学なども学んでいます」
「あー、そうなんですね! すごいなぁ......いろんな分野に興味関心を持っているんだな」


 ビー玉の輝きを持った清川の目に青年は不思議に感じていた。そして、何か言いたげに清川を静かに眺める。その様子が気になった清川は打ち解けてきた流れを掴んで、真っ直ぐに聞いてみる。
 
 

「どうして不思議そうにしているんですか?」


 清川に尋ねられた青年は言葉に詰まるが、切り返しは遅くはなかった。明確な理由はあるが、言いずらいことなんだろうなと察した。
 
 
「......こういう風に興味持たれたのが、初めてだったので」


 清川は目を点にして、また思ったそのままで質問をする。きっと彼は誤魔化されるよりも、真っ直ぐ疑問をぶつけてみた。
 
 
「そうなんですか。でも、こんなに自分のやりたいことに一生懸命に努力しているのに、興味持つ人、本当にいなかったんですか?」


 清川の2つ目の質問に青年は、図星だったのか黙り込んでしまった。しかし清川は、この言葉にはまだ続きがあることを察知していた。懐かしの歌謡曲が古き良き時代の日本的情景を思い浮かばせる。
 二人の間には沈黙ではない無の空気が現れて、一角のテーブルを飲み込んだ。1分ほど経ったのだろうか、青年は開口する。


「興味を持たれたことはあるのですが、すぐに『こんなの知らない』、『よくわからない』、『堅苦しいの興味ない』と言われてしまうので」


青年の微々たる感情の漏れを汲み取り、バケツに移して、観察して本質を発見しようと決めた。前触れもなく本題に入るのも何なので、まずは基本の礼儀を尽くしてから始めよう。


「僕の名前は、清川蛍。もう少し、話しをしていてもいいかな」



 午後二時十五分。清川と青年は横隣りで座り、一冊のノートを目の前に途切れそうな会話を小さく紡いでいた。このカフェを知った経緯や家族構成、休日の過ごし方など他愛のない世間話という範囲で彼を紐解いていく。いい意味で納得がいく答えというか、期待通りというのがしっくりくる。
 でも……。
 きっとこの先が彼の悩みなんじゃないかと清川は密かに考察していた。
 数分前に起こした、清川の控えめだが今の二人の関係性では大胆な提案は青年にとって知識も経験もない場面だった。結構賭けのつもりで打ったものは案外受け入れ垂れていてなんだか嬉しい気持ちになった。
 

 
「話、というと、何の話をするんですか」
「君の勉強していることについて」
「......そんなに分かりやすいものではないですが」
「いいよ。分かりやすいかどうかは気にしないよ。だって、君がこんなにも夢中になっているものだから面白いに決まっている」
「......あの、敬語」
「この方が、お互い対等な感じでいいかなって思うんだけど......どうかな?」
「......どうしてそんなにも僕の話を聞きたいんですか」
「君が、僕に夢を教えてくれたから」
「......!」

 青年は自分が将来の話をしたことを忘れられていると思っていたので、清川の自分を知りたがる理由に挙げられたとき、救われたような心の穏やかさを覚えた。それは両親に自分の夢を覚悟も併せ持って告白した時の感情とは違う、喜。誰もが経験しているようで、していないもの。明確で決められた表現を使う青年にとっては珍しくあやふやな存在だった。もう少しでわかりそうな気がする。なぜか、糸口がそばにあるのだから。
 清川は青年に教えてあげたいことがあった。それは、もう少し話が進んだらにしようと決めてある。それまでは、一センチずつ彼との距離を縮めていきたい。
 
 
「誰かに夢を告白するってことは、僕のことを信頼してくれた証だから。そして、単純にどんな世界に飛び込もうとしているのか、僕も同じ景色だけでも見てみたいなって思って」


 後半はは恥ずかしがりながら清川は青年に対する興味を赤裸々に語ってみた。何回の人の相談には乗ってきているはずなのに、自分の本心を話すのはいつまで経っても苦手だ。この店をやるにあたって、何でも器用にやってきたけれど、やっぱり性分は誤魔化せないらしい。まぁ、テクニックの一つにもなってはいるんだけれど。心を開かなければ、相手も開いてくれるはずがない。相手の本心という。言い方が悪いが弱みを知りたいのなら自分から晒せ。これが心の対話だ。


 一方の青年は、自分が何を言われているのか信じられないがなんとなく満たされた気持ちになった。相手からしたらよく来ている客なので知り合いみたいな感覚なのかもしれないが、だからと言ってこんなにもうさらけ出す必要なんてないのに。どうしてここまでするんだろう。聞いてもわからないことに注がれる興味はどこから湧いているんだろう?
 
 
 
「駄目、かな......」
「......」


 青年は、清川が自分に向けてたくさんの興味と一歩ずつ歩み寄る姿勢が非常に喜びを感じていた。しかし、なぜか受け入れるのに躊躇する自分がいた。形容できない何かが青年の本心を塞いでしまっているのだ。青年はそれに気づいていたが、どう蓋を開ければいいのかを知らなかった。方法を知らないので手を出せず、知識もないので考え方もわからない。八方塞がりの状態だった。子供の頃の夏休みに迷子になった心情に似ている。周りには手掛かりなんてなく、当てもない。あるのは小さな手のひらだけ。


 また自分は、何も言えずに人から離れられていくのか......。また、自分のもどかしいのを伝えきれずに、去っていくのを見送るのか。


 僕は……。


 心の奥底で呟いた言葉は闇に消えずとも、届くこともあるらしい。
 
 
 
「もしよかったら、君の名前を教えてほしいな」


 首をかしげて陽だまりの温かさを呼び起こす清川の笑顔は、青年の気持ちに数ミリメートルの隙間を開け、光を差し込ませた。早朝のカーテンから入り込んでくる朝日みたいに。


 青年はそれに、おはようと挨拶をするように話をする合図を出してみた。


「僕の名前は、筅儀当麻(ささらぎ・とうま)です。......清川さんのお時間を頂戴して、僕の話に付き合ってもらってもいいでしょうか」
「名前を教えてくれてありがとう。もちろん、話せる範囲でいいから聞かせてくれると嬉しいな」


 筅儀がじゃあ、と話し始めようとしたとき、清川は優しく微笑んでお供が必要ではないかと思った。


 勇気を出してくれたことは歓迎するけれど、彼からしたら勇気だけでは心もとないだろう。だから、リラックスするお供と一緒にいてほしい。
 
 
「その前に、お飲み物、ご用意いたしましょうか」


 筅儀は3秒考えて答えた。きっと二杯目にいくか、別のものを頼むか選んでいる。


「じゃあ......アメリカン珈琲をおかわりで」
「ご注文ありがとうございます」


 強引な形ではあったが、もう空になっていたカップがあることを清川は視認していたので丁度いいかなと提案したのだ。


 本当は、サービスしますよというつもりだったが彼のせいからして受け取ってもらえない。誠実すぎるあまりということだ。でも、すごくいい長所だと清川は感じていた。


 足取り軽くカウンターへ行き、アメリカン珈琲を用意する。

「お待たせいたしました。アメリカン珈琲です」


 ありがとうございます、と目の前に出されたアメリカン珈琲を少し見つめて筅儀は一口含ませた。


 ここのアメリカン珈琲は、すごく普通だ。だけど、普通の中にある良さというか、安心感がある。アメリカン珈琲なら基本どこのでも好みではあるが、ここのはなぜか体よりか心が求めてしまうのでよく来てしまう。


シンプルだからこその、良さ。すっきりと染み渡るこの珈琲がやっぱり落ち着くなと感じた。この珈琲を飲みながら勉強しているととても集中できるし、暗記が効率よくできる。不思議なことだが、自分には合っているらしい。脳が柔らかい状態で勉学に励めているのは素晴らしいことだ。上手く成績を残せているのは、この珈琲のおかげでもあるかもしれない。


「ゆっくり味わっていただけて嬉しいです」
「......!?」


 アメリカン珈琲の味に浸っていたことに我ながら気づかなかった筅儀は、その恥ずかしさを隠すように、本題に戻した。


 まずは、どうしてこの夢を抱くようになったのかを話すのが入りやすいかなと思った。


「僕の夢は、小学生には決まっていました。両親の仕事が公務員だったことが一番の要因です。専門家とかでもいいかと思ったのですが、報道番組でいろんな場面で公務員が活躍しているのを見て決意しました。周りには自分と同じ夢を持つ人はいませんでしたが、人それぞれなので特に気にしていませんでした。高校生まではよくすごい夢だねと言われたのですが、大学生になってからは、それと同時にからかわれるではないですが『もっと遊んだほうがいい』とか。『親が公務員だから同じにならなくてもいい』と言われるようになりました。僕は自分の意思で夢を持ったのに心外でした。それよりも衝撃的だったのが、自分の夢への想いと同じレベルの人がいないというか......。誰もついてこないと感じたんです。自分と同じように夢に対して真っ直ぐな人が全くいないことを知ったんです。このことによって、今までのことに納得が付きました。それからは、自分が形骸化しているようで......。勉強は毎日して身についているのですが、蝉のように一か月しかない命を抱えているような気分なんです。残りの日々を潰していくだけのように」
「そっか」


 筅儀の夢のきっかけを一通り聞かせてもらった清川は一つ分かったことがある。筅儀はとても熱い思いを持っている人であることだ。


 自分と他人の物事への打ち込みからは千差万別なのは当然として、筅儀の場合だと真面目であるが故の悩みだと勘違いしてしまうだろう。しかし、そうではない。経緯を語る筅儀の言葉には冷静沈着と熱量がこもっているように感じ取れた。本気で公務人になるという夢を追いかけていて、そのためには何でもやるつもりでやる人間の口調だった。なんて真摯な人なんだろうと清川は感銘を受けた。努力を日々重ねていることに説得力がある人柄だと思った。だからこそ、清川は思った。
 
 
「毎日毎日その夢に向かって努力しているんだね。まぁ、確かに人との違いは気になるし、疎外感を感じてしまうよね。でも、まっすぐ前を見ていればいいよ。誰もついてこなくても、ゴールに先に一緒に走ってくれる人はいるからさ。でも、そんなに他人との違いを気にしている自分を責めなくてもいいんじゃない? 時間が経てば、収まるかもしれないし、待ってみたら?」


しかし、筅儀は清川の言葉に納得がいっておらず、すぐ否定する。どうしても譲れないことらしい。


「このままじゃ駄目なんです。公務員試験はどの科目も気が抜けないですし、国民の力になれるような人材になるには幅広く知見がなければ......失格です」


 筅儀の堅い考え方ともいえる返答にどうしようかなと天井を見上げる。大きな金色のエアファンがゆったり回り、冷房の風をカフェ全体へ均等にならしている。その動きは、少し眠たくもなってしまうような癒しがあったりなかったり。清川は使い古びた隠れアンティークのエアファンから着想した。つくづくこのカフェはいいカフェだなと自画自賛してしまうほど簡単なことで、わざわざ言うことでもない提案だった。


 清川はボサノバの音楽にノせられたように言う。
 
 
 「もっと、ゆっくりでいいんじゃない」
 
 
 筅儀は目を丸くして、あっけにとられた一音を飛ばした。


「え」
「筅儀君は、急ぎすぎなんだよ。もちろん君の高く熱い意識や意欲はとても素晴らしいと思う。周りの人たちが合わなかっただけだよ。でもね、もっとペースを落としてもいいと思うんだ。君は非常に優秀な人だから。それに、ゆったりとしたペースだからこそ見えるものもあると思うよ」


 清川の言葉に、いつ何時も上を目指す筅儀には努力を怠っていると感じたが、蝉のような気持ちになっているのは焦りすぎているのかもしれないと思った。


 公務員試験は言うまでもなく難関試験。並大抵の努力では合格することはできない。両親から聞いた話でも証明されていることだ。だから、毎日勉強の時間をとるのは当然。大学生なのだから勉学が本業で、一日の大半をそれに費やすなんて当たり前のことだ。祖ほど体調が悪くない限り勉強を続けた。そのせいで、僕は勉強以外の大切なことを失ってしまったのだろうか。もしかしてそれは、自分という、人格なのだろうか。
 
 
「お前はよくやっている。普段どうしているかは仕事で把握できていないが、様子から分かる」


一週間前化に久しぶりに会った父を思い出す。父がそう言っているなら、もっと他の部分へ目を向けてもいいのだろうか。


最近気づいた悪い癖である頑固な部分が邪魔をして一口で飲み込めるそうにないが、一切れずつ咀嚼するのは可能かもしれない。


「まぁ、とりあえずやってみてよ」
「......分かりました」


 ゆったりとしたペースで一つずつ進んでいくことにした筅儀だったが、突如地面から空中に浮かんでいるような感覚に襲われた。が、予想よりも悪くないかもしれない。


 自分一人で、こんな自分らしくないことに挑戦できるのだろうかと不安はあるが、成長の糧になるのなら前向きに臨める。


「長々と個人的な話を聞いてもらい、ありがとうございました。この後も、ここで勉強していいですか」
「もちろん」


 筅儀の鎖から解放された爽やかな表情に、清川の心に葉月にしては爽やかな風が吹いた。



 今日はとあるカフェの裏の通用口に、あの小さな曲線が特徴の影はいた。いつもはビルの屋上がお気に入りなのに。影の赴くままは、誰も知ることができない。


 一つ方向転換した原因を上げるとするならば、空が一面厚い雲で覆われてしまっているからだろうか。


 影は今日は夜空を堪能することも、アスファルトの地面を擦ることもせず、ひらすら目の前を一点刮目していた。


「すごく刺激を受ける人だったな」
「でも、自分が進む歩き方があるんだから、無理に兎にならなくていいんだよ」
「亀も、案外悪くないってね」


 しばらく扉の前で細長いものを揺らしていた影はまた向く先が変わったのか、とあるカフェの屋根に飛び乗った。


 曇り空はだんだんと隙間をのぞかせて、満天の星が見え隠れしていた。
 
 


 筅儀との出会いから三日後。


 ひとまず危険を感じるような暑さは帰ったらしい都内は、今日も仕事まっしぐらの社会人たちで埋め尽くされている。クールビスはスクランブル交差点を華やかに彩る。
 
 
「カフェラテでございます」
「......ありがとうございます」


 なにかにとらわれるように集中している少女は、分厚い本から目を離すことなく微かな声で感謝を伝えた。


 黙々と本から目を離さず取り組んでるなとある青年のことを思い出して、少し微笑んでしまう。

 運び終えた清川はカウンターへ戻るため、足音を立てないように慎重に歩いているとキッチンから楽し気な電子音が流れる。


 お客さんの邪魔になってしまう......!


 すぐにキッチンに行き、音のもとである自分のスマホを手に取り、メッセージが来ていたことを知らせてくれていたことを確認した。送信先はあの人からの要だ。なんだ、問屋から電話でも来たのかと思ってひやひやした。


 そのままロックを解除し、メッセージを読むとあの時の驚いた自分が面白い。


「一人でやろうとすると暴走して失敗すると思うので......見張っててもらえませんか」


「本当、突拍子もないこと言ったよねぇ」


 でも、そんな彼も嫌いじゃない。


 新たな一面が見れて、次に来るメッセージをこの瞬間から期待してしまう清川だった。


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