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最後にやきもちを妬いたのはいつですか?

最後に人にやきもちを妬いたのはいつですか?
私はほぼ毎日です。嫉妬とは別ですかね、自分にないものを持っている相手を羨む…という感情とは少し違くて、人間関係において「自分の方がこの人と仲が良いのに…!」と思ってしまうような、ある種拙い感情だと思います。 私は人と会う度にこの感情になってしまって非常に苦しいです。人に対して嫉妬深いとか依存気味だとか(まぁ多少はあるかもしれないけれど…)私の意識とは完全に別のところで脳が自動的に思考を進めてしまって、その結果人を妬む感情が勝手に湧き出てしまってとても厄介です。

Youtubeで障害やハンデがある方のドキュメンタリーを観るのが好きです。いや…「好き」とは少し違う感情だけれど、こんな生き方や考え方があるんだなーと参考になるし、なにより地上波ではほとんど取り上げてくれない精神障害についてもたくさんの事例がアップされていて私自身の参考にもなります。その中で発達障害を抱えているご夫婦のドキュメンタリーがあって、その方が自身の考え方の癖について話している内容にハッとさせられました。

『「大好き」と「無関心」以外の感情が人に湧かない、真ん中のグレーゾーンがない。大好きな人が5人いたら500%で愛してしまうからそれがとても疲れるし、普通の人には何の感情もない。』

「長年私の中でモヤモヤしていた感覚をやっと言語化してくれた…!」そんな風に感じました。この発言をした彼女と私が全く同じ感覚ではないけれど、人に会う度に苦しいのはなぜかひとつの答えが出た気がします。私は人のことがすごく好きです。極端に云えば「笑って色んな話ができてある程度楽しくて、この人は私に危害を加えることもないな」って思ったらその瞬間100%に好きになっちゃうんです、怖いことにたとえそれが一回目でも。人を好きになるのは嫌いになることよりも良いことなのかもしれないけど私の場合、それは違います。

最近になってそうかもしれないと自覚しましたが、おそらく仲良くなるためにかける時間や距離感がおかしいんだと思います。一度会って楽しく過ごせただけで「すごく仲良くなれた!」と勘違いしてしまうので、それ以降の2回目、3回目に会ったときの反応が前回よりも薄いと「あれ?仲良くなれたのにどうしてだろう…?嫌われたのかな」と勝手に自己嫌悪になることが多いです。昔、二子玉川にLasahというお茶屋さんがあって、そこの店主と知り合いたてのときに色色なことを話していたのだけれど「君はなんでそんなに変な質問ばかりしてくるの?普通、初対面や知り合ってすぐの人には到底しないほうがいい質問ばかりだから。俺は面白いからいいけど、他の人にはいきなりしないほうがいいかもね。」と、人生で初めて指摘されました。その時は気付きませんでしたが今になって思い返したら「お互いの深い話をして早く仲良くなりたい!」という想いが先走り過ぎていたのかもしれません。

それと話は遡って高校時代。集団生活が苦手すぎて、結局1年通って退学したんですが、辞める直前に担任に職員室に呼ばれ「堀内、何か悩んでることでもあるのか?」と尋ねられたので悩んでいることを直接そのまま伝えました。「みんなと仲良くなれなくて苦しいんです。」すると予想外の反応が返ってきました。「あのなぁ、みんなと仲良くなんてできるワケないじゃん!そんなことで悩んでたの?」と。
「え…?そうなの?」16歳の私には衝撃でした。今は流石にこんな脳内お花畑の思考からは脱しているけれど、当時は今よりずっと周りのみんなが大好きで、その感情が返ってこないのが何故なのか理解できなくて「どうしてクラス全体が仲良くできないんだろう」と本気で考えてました。

「どうやらみんながみんなと仲良くはなれないらしい…」ということは少しずつ学んできました。でも幼い頃からの、私の思考より先に高ぶってしまう感情には今でも逆らうことができません。忘れられない絵画のタイトルで、日本画家の松井冬子さんの絵に「世界中の子と友達になれる」という作品があります。多分藝大の卒業制作だったかな?実際に絵を観に行ったくらい好きなんですけど、やっぱりタイトルが好きです。彼女はインタビューでタイトルについて「絶対的に実現不可能な狂気に対する皮肉を込めて」と語っていました。大人になって色んな人たちと関わっていく中で実体験としてみんながみんな仲良くなれるなんて無理だと分かりました、どれだけ大きな希望が込められた皮肉かとういうことも。幼い頃から私の心の根幹にあった「みんなで仲良くなれる世界」をどこかで肯定してくれた気がして、そしてそれを優しく打ち砕いてくれたような気がしてこのタイトルがずっと忘れられないんです。

松井冬子《世界中の子と友達になれる》
2002年、絹本着色、裏箔、紙、181.8×227.8cm
作家蔵(横浜美術館寄託)

「大好き」と「それ以外」に勝手に分類されてしまうから厄介なんです。会ったら雑談するだけ、他愛もない話をするだけの意味が本当はよく分からない。死ぬほど雑談が苦手です。何度も云うけれど頭では分かっているんです。仲が好い友人。バーで偶に隣合う知り合い。顔は知っているけれど本名は知らない上っ面の人。みんなと仲良くなれるはずはないって分かっているんだけど、好きになった人を100%の尺度で好きになってしまう。まだ心のどこかで夢見ているんです、みんなで手を繋いで笑い合えるような世界を。

それと同時に矛盾もしていて、とても冷たいと自覚もしているのだけれど物理的な距離や仕事、状況が変われば仲が良かった人とも自然と離れていくじゃないですか。そのとき壊れたおもちゃに対して「もう要らないや」って思うくらいあっけなく関係を0にする癖もあるんです。つまり何が云いたいかというと宙ぶらりんなことが苦手なんです。すごく仲良いことを相手に期待しすぎて返ってこないと辛くなっちゃうんですよ。私の頭の中で勝手に「私は全力で想ってるからあなたも同じ熱量で想ってほしい。想ってくれないならこんな関係要らない」って仕分けされる感じなのかも。実際グレーゾーンな関係を築くということがどういうことなのか今でもいまいちよく分かりません。

人はいきなり仲良くなることなんてないし、会って毎回前回を更新できるくらい楽しいことも少ないと思う。だらだら過ごす日もあれば喧嘩したり、微妙に終わる日だってある。勝手な願望としては私が大好きになった人たちとは最高な1日を過ごしたいし、毎回その楽しさを更新したい。でもそれは無理だ。分かっています、でも私じゃなくて私の中にある障害が私の思考を強制的に奪って勝手に悲しくなって、辛くなって、家に帰ると淋しくて泣き叫んで暴れて家のものを壊すんだと思います。

最終的に今、私が感じている感覚を文字に起こして客観的に視てみたら恐ろしい…というか怖いです。何故かというとつらつら書き連ねたこの文章が全部事実だから。どうしても勝てないんですよ、暴走するもうひとりの私に。理性で「辛くないよ、悲しくないよ」と呼びかけてもものすごいエネルギーで反発してくる、それに対抗する術は今のところ見当たりません。

「生まれる星を間違えた。」今は本気でそう想います。好きな人たちがみんなが好き過ぎて会う度やきもちを妬いてしまう自分がまるで宇宙人のように感じます。「人と違っても良い。」でも、人と違いすぎて苦しいんです。

果たして私はこの先この星の人間たちとうまくやっていけるんでしょうか、自信はありません。


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