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品品喫茶譚 第85回『長崎 冨士男』

土曜日。ってやっぱり今日ですやん。
九州へ。
とても大切な用事があり、そのあと最後の最後、京都へ帰る前に長崎に少しだけ寄る時間ができた。いま街はランタン祭りの真っ只中である。街中に関羽だ、仙人だ、稚児だ、龍だ、と色とりどりのでかいランタン?が惜しげもなく飾られている。壮観である。
覚束ない記憶を頼りに川沿いから『冨士男』を目指す。ここ十年、長崎に来るたびに必ずと言っていいほど寄ってきた喫茶店である。
川は流れ、橋は曲線を描く。その下のひとつではずっとじいさんがひとりしゃがんで鯉に餌やりを続けている。白、黒、赤(は、いなかったかもしらん)の鯉が口をパクパク開けて、じいさんの餌に群がっている。微笑ましい、かどうかは分からないが、なんとなく見入ってしまう光景だ。
と、そのとき、ふいにもうひとり、おっさんが川下から現れた。
あとから現れたおっさんは、餌やりじいさんの横に立つとおもむろに手を叩き始めた。パチンパチンと何度も何度も繰り返す。おのれの方に鯉を呼び込もうとしているようにも見えるが、実際、意図が分からなくて傍目から見ていても怖い。
餌やりじいさんの餌やりを手伝うつもりなのか、それとも邪魔をしているのか。その行為は鯉にとってどんな意味があるのだろう、などと無駄に悩んでいたら、餌やりじいさんがおもむろに立ち上がり、その場を去ってしまった。
なんだかかわいそうだなとは思ったものの、私が餌やりじいさんにしてやれることは結局のところひとつもないし、彼の餌やりに対して、特段感情移入している訳でもなかった。
おっさんはライバルがいなくなったのを良いことに、ここぞとばかりに激しく手を叩き始める。本当に何の意味があるのだろう。鯉は全く寄ってきていない。
餌もない。餌やりじいさんもいない。鯉にとっていいことはひとつもない。
このままここでおっさんが手を叩くのに合わせて時間を浪費するのは私にとってもいいことがひとつもない。

ふたたび冨士男を目指すことにする。
路地を歩くたびにだんだん記憶がよみがえる。確かに何度か歩いたことのある道だ。街が自分のほうに寄ってきてくれる感覚に包まれ始めたころ、冨士男に着いた。
店の前には1組、先客がいたが、割合すぐ入ることができた。
ハムサンドセットを注文する。飲み物は無論、珈琲である。であるのに、横に店員さんが来たらなんだかメニューを見る目が意味もなく焦ってしまい、様々な場所をうろうろした挙句、一番オーソドックスな珈琲(それはまさにメニューにも"珈琲"と書かれていた)を注文することにした。
その際、ただ何も考えずホットと言えば良いものを、なぜか
「オリジナルブレンドで」
などと言ってしまい、一人でずっと恥ずかしくなってしまった。
しかも、そのあとすぐに言った
「ブラックで」
の一言は全く店員さんの耳に届いておらず、件のセットが運ばれるちょい前にもう一度、店員さんに聞かれて答えることになった。恥ずかしい人生よ、輝け。
それにしても運ばれてきたハムサンドのきれいなこと。何がそんなにきれいだったかというと、ハムと一緒に挟まれたきゅうりのそれはそれはきれいなこと。それらはあまりにも細かくきれいに切り揃えられていたのである。ちょっと食べるのがもったいないくらい芸術じみていた。しかし私は腹がくちていたので、すぐ食べてしまった。
とても美味かった。
数年ぶりの冨士男よりさらに数年前、市内の別の場所にある喫茶店『冨士』のほうで、入るやいなやお冷をぶちまけて恥をかいた私である。いつも店員さんが優しくて救われてきた私である。
ああ、いつになったら、大人の余裕を持って茶をしばけるようになるのだろう。

長崎駅は新幹線が開通したことにより、著しく整備されていて、少し寂しさがあった。
私は以前の長崎駅の改札を出てすぐのところにあるラジオブースが特に好きだった。大学生のころに好きで何度も観た銀杏BOYZのDVDに登場するのだ。ラジオブースに乱入する峯田氏、メガ氏。さらに、その近くの歩道橋で彼らは路上ライブもしていた。いつか行ってみたいものだと思いながら、それから十年くらいして、ようやく長崎に降り立った。ブースにはそんな思い出がある。
新しい長崎駅をなくなってしまったものを懐かしむようにとぼとぼ歩く。
「ほら、昔、ここにラジオブースがあったんだよね。もうなくなってしまったみたいだけど」
悲しかった。
なくなってしまうものが多すぎる。
かなしみがかなしい。
私がのほほんと暮らしているうちにどんどんなくなっていく。

かなしみに酔った数秒後、私はまだラジオブースがそこに健在であることを視認した。
二度見した。いや、四度見した。
昨日、駅の階段で江戸川乱歩そっくりのおっさんを見かけたときくらい凝視した。
間違いはない。ラジオブースは健在であった。
感傷の化け物よ、眠りなさい。あなたには眠りが足りていないのだ。
世間は三連休。
降って湧いたような九州行き。
街には人が溢れていたが、楽しかった。
私が動いたときにことは動くようだ。
感傷の化け物よ、書きなさい。そして八時間くらいは眠りなさい。

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