品品喫茶譚 第82回『いまさらホールデン・コールフィールドに影響されて喫茶店を訪れた男』
喫茶店で珈琲を注文するときにさ、店員さんが「フレッシュやお砂糖はどうしますか?」って聞いてくれることがあるだろ?
そういうふうに聞いてくれるときは大丈夫なんだよ。一言、ブラックで、これで済んじまうんだけど、困るのは、聞いてくれなかったときなんだな。
もちろんそんなときでもブラックで、ってちゃんと言えるときもあるんだけど、なんだか色々なタイミングを逃しちゃってさ、どうしても言えないときがあるんだよ。そんなときは大変なんだ。
珈琲と一緒に小さな銀色の容器に入ったフレッシュと細長い袋に入った砂糖が運ばれてくる。僕がブラックで、と言えなかったものだから、わざわざ店員さんにフレッシュを注ぐ手間をかけさせてしまったわけなんだよ。
しかも、このフレッシュはもちろん使う予定がないから、ずっとテーブルの上に置かれていることになる。僕は喫茶店で本を読んだり、パソコンを開いて作業したりすることが多いんだけど、このフレッシュのやつがさ、結構気になってしまうものなんだよ。奴さん、小さい容器にだくだくになっているものだから、何かの拍子にすぐこぼしてしまいそうになるんだな。
実際にさ、僕の友達なんか結構やるんだよ。しゃべることに気を取られて、たとえば肘とか腕が当たっちまうんだな。フレッシュってのは、ほとんど油脂だからね、それが服についた日なんかには目も当てられないことになるんだ。結構な染みになっちまうってわけさ。本にかかっても最悪だし、パソコンは、これは言うまでもないよ。使わないフレッシュがテーブルの上にあるってことは、君が思っている以上に気を遣わなくてはならないことなんだ。もっとも、これは全部自分のせいなんだけどね。僕が最初にブラックで大丈夫ですって言えちまえばいいだけのことなんだけど、ちきしょう、僕はどうしても忘れちまうときがあるんだよ。
細長い袋に入った砂糖にも申し訳ない気持ちになることがあるんだ。袋に入った砂糖なんてさ、全く開けていなかったら、僕が帰ったあとにほかのお客さんに改めて出すことができるかもしれない。もしかしたら実際、そういうふうに無駄のないようやっているのかもしれないけどね。実際のところはわからないんだけど、僕はおそらくやってないんじゃないかと思うんだ。
一度、客に出したものをほかの客に出すようなサービスはあまりいいサービスとは言えないってことになっているだろ。だとすると、使っていないにしても砂糖はきっとそのまま捨てられてしまうことになる。だから思いきってそいつを家に持ち帰るときもあるんだよ。無駄にしちゃいけないって思ってさ。でも、そうやって持ち帰った砂糖を使った試しなんてほんとは一回もないんだな。結局は捨てることになっちゃうんだよ。
ここまで聞いたら、君はそれならフレッシュも砂糖もその場で使えばいいって思ったんじゃないかな。もちろんそれができれば一番良いんだろうけど、そうもいかないんだよ。というのも僕は珈琲はブラックじゃないとダメなんだよ。初めて珈琲を飲んだときにブラックで飲んじまったもんだから、僕のなかではもうそれが珈琲というもんだって決めつけられちまったんだな。僕にはそういう頑ななところがあるんだよ。全くもって下らないと思うんだけど、どうしてもダメなんだ。だから僕は最初に必ずブラックでお願いしますって言わなくちゃならないのさ。
実はね、ちゃんとブラックで注文できたときだって、気になっちまうことはあるんだよ。珈琲に添えられてくるティースプーンなんだけど、これがブラックのときにも添えられていることがあるんだよ。でも僕にはかき混ぜるものなんて何もないんだな。君がもし何もかきまぜる必要がなさそうなときにティースプーンを添える理由を知っているならぜひ教えてほしいんだけど、とにかく僕は使い方が分からなくて、いつも困ってしまうんだ。
だから珈琲が運ばれてきて、スプーンが添えられていたら、僕はまずそれをテーブルのどこか端っこのほうによけることから始めることになるんだよ。これだって僕が帰ったあと、使われなかったスプーンをそのまま次の客になんてことはしないだろうさ。きっと洗浄機か何かで洗われることになる。ここでも僕はへまをしちまってるってわけさ。全く嫌になるよ。店員さんはもっと嫌だろうけどね。
実は僕の質の悪いところは、まだあるんだよ。
さっきからずっとブラックで、なんて言っているけど、実際僕は珈琲の味なんてまるっきり分かっていないんだからな。ブレンドで、なんていくら知ったような顔をしても、きっと店員さんもお見通しだと思うよ。こいつは何も分かっちゃいないってね。
でも困っちゃうことに僕は喫茶店が大好きなんだよ。余り混んでいない隅っこの席に座って、珈琲をちびちび啜っているとさ、なんだか分からないんだけど、すごく切なくなっちゃって、しばらくすると家に帰りたくなっちゃうんだな。まるで天邪鬼なことを言っているように聞こえるかもしれないけど、そうじゃないんだ。隅っこの方でさ、ぼーっと色々なことを考えていると、ついさっき飛び出してきたばかりの家がまんざら悪い場所でもなかったんじゃないかってそんなふうに思えてくるんだよ。おまけに何か書きたくなっちゃったりしてさ。いてもたってもいられなくなるんだよ。
喫茶店にあんまり長くいることはおすすめしないよ。きっと色々な人たちのことを思い出して寂しくなっちゃうだろうからね。それも、頭に浮かんでくるのはもうずいぶん前に会えなくなっちゃった人たちばかりなんだ。たとえばそうだな、まるでストラドレーターみたいな嫌な奴にだって、なつかしくて会いたくなっちゃうんだよ。ほんとなんだ。