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理系から脱落し文系に進んだ人間がやるべきこと

技術者になるつもりだった私が事務職に就職し、つまらない労働にしか就けなくなってしまったアンサクセスストーリーは繰り返し書いてきたが、文系に進んでしまったからこそ、常に心がけていることがある。

それは「言語化」すること。記号やデータを処理する能力がない分、言葉を正しく面白く使って、感情や思考を言語化し、体系化することが、文系にできることだと思っている。

それは仕事で使うスキルに限ったことではなく、人の喜怒哀楽や悩みを言語化することで解消に向かうための突破口を見出したり、自分自身の理性を維持するために活用することができる。

私自身も、幼少期から国語が苦手で数学が好き、言語よりも記号の方が好きな人間だったので、言葉で何かを表現することは得意ではない。特に、形式を統一したり、きちんと整った文章を書くことが好きではない。

矛盾点や悪い点を探し出し、完璧な文章を作ることに関心がないからだ。見ればわかるレベルで十分と思ってしまう。だから学校でも仕事でも、あなたの書く文章は出来が悪いと言われてきた。

一方で、先日のこの記事のように、何か言語化することで人をすっきりした気分にさせることもできるとわかったし、きちんとした正しい文章だけが良いものなのか、価値のあるものなのか、という疑問もある。自分なりに書けることを書くのが、文章との付き合い方としてよいんじゃないかなと思っている。

文章を下手なりにも書き続けると、大事なことがわかってくる。それは「書くことを苦にしないこと」だけだ。完璧なものや良いものを書かなければならないという強迫観念を払拭することがとても重要で、下手でもいいから成果物をたくさん作る。そのうちの1個くらいは良いものができるかもしれない。

質なんて見る人によって変わるんだから、質より量だ、そう思うことが重要だと思う。手を動かしてみる、うまくやろうとしない、うまくやる方法を知るまで何もしないのが一番問題だ。

とにかく書く。思ったことを書く。考えたことを書く。思考をアウトプットする習慣は必ず何かの役に立つし、言葉をどんな形でもいいから使いこなすことが、技術を持たない文系出身者が常に意識できることなんじゃないかと思う。

文系にも文系学問の知識があるけれど、具体的に何が生み出せるのかと問われたときに、物事の可視化を言葉を使ってやれると言えるようになりたいし、そうあり続けるためにも、こうやって意味のないことをどんどん言葉にしていくことが大事だと思う。短文のつぶやきやおしゃべり目的のSNSではできない「言葉遊び」を楽しまなければ、もったいない。

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