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DINKsと反出生主義と親ガチャと人生

音信不通になった友人がいる。現時点で、人生の半分以上の時間を過ごした唯一の人物だ。家族以外でこれほどの長い時間、継続的な関係を構築できた相手はいない。

29歳の時、その友人は急に蒸発してしまった。それまでは年に1回や2回は近況報告していたが、その連絡もなくなり、私が一方的に近況報告の連絡をするようなことが続いた。

ある日、友人から旅行土産が届いた。お礼の連絡をすると、これまで連絡をよこさなかった理由と、自分が今極限状態の精神に侵されていることが書かれた長いメールが返ってきた。彼の家庭は典型的な毒親家庭で、子供の主体性や意思よりも、大人のメンツや体裁が優先されて当たり前の環境だった。何をやっても否定され、親の権威のために子供が存在するかのような主張が罷り通っていた。

家庭が安らげる場所じゃないストレスは計り知れないものである。それは私もこれまでの人生で感じてきたが、そんな生半可なものとは比較にならないほど、友人の置かれた環境は深刻なものだった。

否定的な言葉を浴び続けると、人間は自己肯定感を失う。私はもともと性格に異常があったので、他者の目を気にせず自己完結することができたから今まで生き残ることができたが、一般的な感受性を持っている人間にとって、選ぶことのできない相手である親からの日常的な侮辱や否定は地獄そのものだ。

こうした20年間が友人の人格を完全に崩壊させ、普通に学校を卒業したり、普通に職に就いたり、それを持続させたりすることが極めて困難になってしまったことが書いてあった。統合失調症を発症したことも書いてあった。

「最後の一年にするつもりで、再起を図りたい。落ち着いたらまた連絡する。それまでは誰とも関わりたくないし、気を遣いたくない。1年だけでいいから、放っておいてくれ。」

そう書かれていたので、尊重して待つことにした。あれから数年が経過したが、何も連絡はない。この状況に対し、連絡してあげるべきだと助言してくれた人もいた。そもそもこの話を第三者に打ち明けることを避けていたので、こうした話もほとんど生じていない。

ただ、私は、自己満足のための声かけが友人を更に追い詰めることになるだろうと思っていたし、私くらいは、黙って待っててあげられる存在であろうと思ったので、あれから、友人の要望通り、一切コンタクトを取らずに待ち続けている。

残されたままのメールアカウントにだけ、1年経過以降、節目に近況報告を入れている。友人はもうこの世にいないかもしれないし、どこかで全然違う人生を歩んでいるかもしれない。元気でいてほしいと願っているし、友人が私と会いたくないうちは会わなくてもいいと思っている。どこかで元気に過ごしていてほしいと思える関係こそが、友人関係だと思うからだ。

ここまで長い間、交友関係が続いたという事実から、少なからず双方が相手を必要な友人と認識していたと信じたいところだ。今思えば、この友人が私にとって唯一の友人だった。

無理なく自己開示し、どちらかが一方的に自分の心の隙間を埋めるのではなく、互いに無理なく関わることができる相手である。疎遠になったり頻繁に連絡を取ったりするなど強弱はあれども、今を楽しんだり、それぞれが気持ちに余裕を取り戻す時間を過ごすことができた。

体裁や比較、余計な気遣いなく自然体でいられる相手であり、べき論をぶつけ合うこともなかった。寛容な放任主義といえる関係だ。この友人に対しては、何かを比較することがあっても、負けたくないとか、勝ちたいとか、そういう感情を持つことがなかった。優劣をつけられることに抵抗を感じない相手であり、優劣ではない他の何かを楽しめる相手とも言えそうだ。そもそも、互いに自分自身の目標や理想が具体的だったので、相対化して一喜一憂することも少なかった。

この友人がいなくなった今、私には友達と呼べる人間はいない。連絡を取ったり、酒を飲む相手、近況報告をする相手はいるが、信じられる相手はいない。

信用していないから、自己開示をしないのだ。それは私が招いた結果であると同時に、周囲も、自己開示の少ない私に対して、何でも黙って聞いてくれる存在だとして近づいてくるのかもしれない。

私のように、自己完結できる人間は、愚痴や不満など、欠乏の多い人物を引き寄せやすい。情緒不安定だったり、愚痴や不満が多かったり、とにかく「足りない」人を集めてしまう。

私が自己開示欲が少ないだけなのに、良い聞き手としての立ち回りになってしまう。いつのまにか、何の会話かわからなくなっている。そんな流れが否めない関係が多いことに気づく。少しでも私の意見を言うと、相手は会話を中断したり、話題を変えたりしてくる。

素直に、あなたは苦労している、可哀想、頑張っていると労い続ける場合だけ、意思疎通が円滑に進む。相手を労うことで成立する友人関係を作ることしかできなくなっている。不幸マウント(私はあなたよりも苦労している)に迎合し続けなければならない。周りはこうした行動を「優しさ」と呼ぶ。

後ろ向きな記事になりかけていた。読者の方もそう思うだろう。結論はそうではない。心の底から自己開示できる友人が誰もいなくても、嘗て存在したただ一人の親友の存在があるだけで、十分生きていけるということが結論だ。信じてみようと思える人物の存在はそれほど大きく、疎遠になっても今の自分の歩みを継続させる推進力に十分なりうるものなのだ。

このツイートを見かけたとき、これが人生、社会、人間そのものなのだろうと感じた。妻がいて、幸福で、強欲的な価値観を捨てることができて、そういう人間でも、人生の本質はこれであると心底思ってしまうのだ。そう思わせるだけの何かが私の30年間の人生で起こっていたのだろう。

こういうことをいえば、反出生主義と言われるが、その指摘は半分正しい。「どうせこの世に生まれてしまったんだから、できる限り思い切り楽しまなきゃ」とは思うが、わざわざこのクソ社会に新しい生命を生み出したり、競争して相手を蹴落としてまでしないとまともな生活水準にありつけない社会で、わざわざ人を増やす意味とは何かと疑ってしまう。

親ガチャという言葉が流行っているが、親ガチャが人生だから子供を作らないというのは、親ガチャでハズレを引いた者だけの選択肢ではない。私のように、親ガチャ・環境ガチャで大当たりを引いたからこそ、そんな旨い話は宝くじレベルのものであるし、それが普遍的である前提で生命のリレーを続けることはハードモードだと思うのだ。

ミスチル(Mr.children)の「ALIVE」という曲がある。暗いけど前向き、ネガティブとポジティブを掛け合わせたかのような「ネジティブ」と勝手に呼んでいる生き方、考え方が詰め込まれた歌詞を感じる。そんな感情に近いものを私は持ち続けている。

厭世的だけど、絶対にマイナス思考には陥らない、今あるもの、今そばにいてくれる人、今の自分の糧になってくれた人、一つ残らず全部大切にする。そのためには、私自身が幸福を感じ続けなければならない。それが私の使命だと思っている。

それが私の子なし主義、DINKs主義なのかもしれない。

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