友達に「お前」と呼ばれたことがない
先日、妻とあるドキュメントを見ていた時に、大学生の男性数人が仲良しグループでドライブ旅行をする場面が出てきた。その男性グループに、番組スタッフが何を話しているのかを聞くと、そのグループ内の一人が気になっている女性にどうアプローチすればよいかを、みんなで相談していたらしい。いわゆる「恋愛話」で同性仲良しグループが盛り上がっている場面である。
こういうグループが地元には多いと妻は言う。同性だけで集まって旅行したりドライブに行ったり、バーベキューなどのアウトドアを楽しんだりすることを、大人になってからもやることが多いという。だから私のように「同性だけで群れる」付き合いを持たない人は新鮮だったという。
私は中学受験したので、小学校の交友関係はその時点で終わり、卒業して1年や2年のうちは、夏休みに花火をしたりしたこともあったが、やはり公立と私立ではすべてが異なるので交友関係も自然消滅、中高は男女共学だったので、そもそも性別に分かれて群れるという概念も必要性もなく、帰宅部だったので「大学で〇〇系(専攻)に進学した数名」みたいなグループでの付き合いが若干残るのみである。地元は典型的な神奈川都民が集まる匿名型住宅地なので、地元で知り合いに会ってお互い気付くようなことがない。だから人間関係という側面からの故郷は私にはない。
大学は言うまでもなくさらに人間関係が流動的になり、労働者になってからはそもそも同期が少なく、男女混合なので、同性だけで群れる機会はない。もちろん、同性だけの飲み会やサークル活動のようなものも、学校や会社において設置されていなかったわけではないが、男女の両方の性別がある中で、わざわざ片方の性別だけで集まることに特に意味を感じなかったので、こういうコミュニティには参加しなかった。
タイトルにあるように、私は「お前」と呼び合う友達がいない。必ず「〇〇さん」「〇〇くん」と呼ぶし、相手もだいたいそうである。学生時代の友人で私のことを呼び捨てにする人もいるが、基本的には「〇〇さん」「〇〇くん」あるいは通称で呼ばれる。そこまで親しい関係じゃないからかもしれない。もしくは、今付き合いがある友人知人も、そのくらいの距離感で人と関わりたい人なのかもしれない、または、親しくても友人を呼び捨てにすることはぶっきらぼうだと考えている人が多いのかもしれない。10年以上の付き合いがあり、身の上話ができるような人でも「〇〇さん」と呼び合っている。もちろん、親しいからと言って、相手をいじったり冷やかしたりはしない。異性だからといって対応が変わるわけではない。
男女隔てなく関わる交友関係が私には合っているのだと思う。というか、同性に対しても雑にせず丁寧に関わる関係に居心地の善さを感じているんだと思う。以前、異性がいると思い切り自分を開放できないという意見を見聞きしたことがあるが、思い切り自分を解放するという概念があまり理解できなかったし、それは異性と同性で何か変わるのだろうかとも思う。同性だから踏み込んだ話ができるということなのかもしれないが、基本的には異性に言うことがNGな話は、同性に言うのもNGなのではないかという感覚だ。だから友人が少ないのかもしれない。
以前の記事でも書いた通り、人間関係に性別がそこまで重要であるという概念がないのかもしれない。じゃあ妻以外の女性と一対一で会うかといえば、そんなことはないわけで、人と関わるうえで性別は気にしていると思う。けれども、意思疎通を行う上で性別が行動基準になることはほとんどないと思っている。あるとすれば「妻」か「妻以外の人間」かだろう。極論ではあるが、絶対的に特別なもの以外にイチイチ順位をつけること自体が面倒なのかもしれない。
そしておそらく、この意識は「性別ごとに役割が決まっている」という考え方がないことにも起因しているように思う。男性だから、女性だから〇〇だということをほとんど意識して生きてこなかったから、区別することを必要としてこなかった。必要としてこなかったから、逆に同性に期待することもなかったし、依存することもなかったし、それゆえ距離を特別に縮めることもなかった、そんなところだろうか。
自分が経験したことないことを見聞きするのは、視野が広がると思う。最近は妻が大学の勉強を通して海外の文化や社会について考えることが増えているが、そういう話を共有してもらえることで、私も人生の画角が広がっている気がする。それも、ただの広角レンズではなく、望遠から広角まで幅広くカバーするレンズを手に入れたかのようにである。こういう何気ない疑問や発見は、どんどん夫婦間で言語化していきたいと思っている。