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DINKs的日常4分割/労働・家事・生産・創造

妻と一緒に考える「男女の人生と選択」について。最近は毎日のように、帰宅してから夫婦で男女の生き方について話している労働や結婚に関する選択に、これまで育ってきた環境、家庭や教育や地域文化がどう影響しているか、そういう様々なサンプルが周りにいて、実際に20歳、30歳の局面でどういう人生を歩んでいるか。何がその人を幸福にするのか。そんなことをああでもないこうでもないと夕飯を食べる流れで、ずっと寝る前まで話している。

子供を持たない選択をする男女が社会の影響をどう受けて、それが自身の人生設計にどう影響したかについて考えている。その話の中で、女性が就労するかどうかの話題になったとき、妻は「働かないで生活できるのは安心感やストレスフリーが圧倒的だけど、自分でお金を稼いでいる安心感のようなものがない部分については、ふと不安になることがある」と話していた。

それは、たとえば私が急死した時のために保険に入っているとかそういう話ではなく、単純に、その日を自分で経済的に自立して生きていく基盤があることが安心するという意味らしい。独身時代にはそれがあることで心理的安心感や、このまま独身でもいいかなと思っていたところもあったようで、人間社会とつながりをもつこと、かつ、経済的に自立していること、はその人にとって、他の誰にも依存せずに生きていけるポイントなのだろうと思う。

話は変わって、先日の記事で、妻が働かないことについて、育児がないのに仕事しないのはなぜかと問われることへの疑問を書いた。なぜこう思うのかについて、昨日も夫婦で話し合っていた。そもそも私達、特に私が想像している日常生活、夫婦生活、家庭生活が、一般人のそれとは大きく異なるからであると分かってきた。

専業主婦として家事を担う、外で働く…女性のライフコースとしては左記の2つがあると思う。どちらかを選択しなければならないという価値観が根強い。経済的に不安定な今は、働くことが前提にあり、働かないならば専業主婦で子育てだよね、という考えになるのが支配的な流れだろう。つまり、労働と育児だけが家庭を営む者がすべきことであり、したいことだという共通認識が大きいと思う。そしてそれが人生の目的や醍醐味であると。

私は上記のように生活を2分割しておらず、4分割している。ハウスワークを家事とすれば、(1)家事、(2)労働、(3)生産、(4)創造の4つだ。この4つが、日常生活における人間の活動だと思っている。そもそも2分割ではないのである。

そして今、私達夫婦の分担は、(1)と(2)が夫、(3)が夫婦共同、(4)が妻なのである。重要度は(4)、(3)、(1)、(2)の順だ。

家事は毎日の生活の質のため、衛生的な環境とゆとりある空間で穏やかな気持で夫婦仲良く暮らすための基盤整備である。労働は必要な資金を調達する手段である。生産は、たとえば英語の勉強のように、ある程度その方法が確立していることで、先々の自分たちの人生を豊かにするために繰り返す活動である。創造は、新しいことに取り組んだり、何か面白いことがないか調査したりしてみることである。

妻は退職後、労働時間に拘束されない分、色々な習い事や活動を始めることができたし、これまでとまったく異なる形の知人友人ができた。妻が調べてくれたことで二人で訪れた場所もたくさんある。それが「創造」活動なのだ。創造活動なしに前進はない。

会社労働と育児しかイメージしなければ、確かに今の妻は「何もやっていない人」と思われるかもしれない。けれども、実際は真逆で、妻の日常は私のそれの何倍も濃く、忙しく、多くのことを短い時間の区切りでこなしている。自動化された現代の家事以上に忙しく、かつ、それが明日の私達の楽しい毎日を作っている。これを捨てて「働かない女は家事・育児」という世界に妻を追い込むことに、何の意味があるのだろうか。

もちろん、それを幸福や人生の使命だと思っている人には理解できないだろうが、同じように、子供を当たり前のように持つ意識が前提として存在しない私にとって、今の生活の何が不思議なのかが、よくわからないのである。

最近の会話では、自分がそもそも「一般的な人が想像する人生」を前提条件にしていないのではないかという視点を新しく持つこととなった。そしてそれが、周囲との意見交換や意思疎通、何気ない会話にも滲み出ることがあるから、注意したいと思う場面がある。その話は次回の記事で。

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