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レッテル貼りの人間関係から解放される
他人についての印象を考えるうえで、他人の周りにいる人の影響を考えるかどうかという話が出ました。たとえば、私という人間がどういう人間であるかは、私の両親や友人の存在が影響しているという考え方です。より具体的にいえば、誰かのことを褒める際に「○○さんが素晴らしいのはご両親の存在があってのことだろう」みたいに考えることです。
私は上記のような考え方を持ちません。たとえば、妻は素晴らしい人ですし、妻の両親や兄弟姉妹も人格者ですが、妻が素晴らしいのは妻の親族が素晴らしいからだと思ったことは一度もなく、妻が素晴らしいのは妻という個の存在が素晴らしいことだけに起因すると思っているのです。
究極的に「個人主義(思考)」なんだねと言われます。
相手を見るときに、相手以外の第三者の存在を見ません。友達の恋人や家族は友達とは無関係、そう解釈します。日本人のスポーツ選手が金メダルを取って「日本の誇りだ」「だから日本は素晴らしい」とも思いません。素晴らしいのは国や日本人ではなく、その人という個人ですから。地域の誇りも同じです。家族の誇りも同じです。
何かを判定するうえで、その人の属性を先に見てしまうことを危険視しています。正常な判断ができなくなるからです。出身、所属、思想など、個人の要素を見る前に、周辺情報を見てしまうのが人間の常ではないでしょうか。それが非常に危険だと思うこの頃です。
その人が話していることを解釈するとき、その人が今、その場で発信していることや、表出している行為以外の何かと、その人を結びつけることは危険です。何者でもない自分の眼先に存在する他者がもたらした言動だけで判断する方が安全でしょう。たとえば、前回の記事でも、田舎には男尊女卑が多いということを書きましたが、経験則的にそういえるだけであり、男尊女卑の考え方をする人が失言をした際に、その人が田舎者かどうかを血眼になって調べることをしてはいけないということなのです。
話を戻すと、こういう思考回路があるので、他人のその先にあるものに関心が向きません。友人の友人、恋人、配偶者、子供、親…そこまで興味関心が届くことが極めて少ないのです。一対一の関係だけあれば十分であり、その先にコミュニティを作る必要はないと思っているからです。友達の友達は友達という考え方も良い部分があると思いますが、望んで手にしたいとは思わないです。
妻の田舎の友達の夫が、何かにつけて私たち夫婦に関与しようとしてきたり、比較してもいないのにマウントを取ったり張り合ってくることがありますが、そもそも「配偶者の友達」に対してそこまで個人で突っ込んでくる神経が、よくわからないんですよね。大家族的なコミュニティを望んでいるのかもしれませんが、私はどうしても、一対一の落ち着いた関係を望んでしまいますね。