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DINKSが向き合う「なぜ子供がほしくないのか」について

子供が苦手とか、子供が嫌いとかいう意見は、一般的にタブー視されている。子供は神聖であり、他人の子供や学生であっても無条件で肯定しなければならない空気がないわけではない。子供は大人社会から切り離されたものだから、大人と同じように扱うことはしないという考えも根強い。

子供を持たない理由について「経済的な問題」「自由時間が欲しい」「ライフスタイルの多様化」などと色々な言われ方がされるけれど、本当はもっと単純な問題なんじゃないかと思うことがある。子供を持たない理由について単純な切り口から考えてみる。


1.そもそも子供は好きか

私は「どっちでもない」というのが正直なところ。赤ちゃんを見てかわいいと思うこともあるし、幼稚園児を見てかわいいと思うこともある。優しい学生を見て気持ちが穏やかになることもある。

ただ、どちらかといえば、子供(未成年)の行動を見ることで、マイナスな気持ちになることが多い。電車で大騒ぎする子供とスマホに夢中でそれを放任する親、我が物顔で騒ぎ広がる部活動の中高生、俺が一番!と他の友達にマウントを取る小学生、悪口が絶えない中学生の下校集団、正直、積極的にかかわりたいとは思わない。

とはいえ、距離を置けば特に不快感を持つことも迷惑することもないので、車両を変える、経路を変える、時間帯を変える、住まいを変えるなどして、ほとんど子供との接点がない環境で生活をしている。だから「嫌い」と思うことも「好き」と思うことも、機会がなさすぎて生じない。

ただ、子供たちは気の毒だなと思うことがあり、それはスマホ社会だったり、本音を言えない友達関係だったり、何でもかんでも比較されたり、自分の方が数億倍楽な人生だから、彼らが仮にいわゆる「ムカつく」ことをしてきても、笑って流して差し上げるのが妥当かな、なんて考えている。

2.子供と関わることはあるか

これが一番の問題かもしれない。自分の子供を持たない私にとって、子供は異世界の存在という感覚がある。親族の誰もが小さな子供を育てていない環境で、結婚してようやく親戚に小さい子供がいる環境になった。その子と少し遊んだことがあるが、未就学児と対面で関わることなんて、自分自身が未就学児だったころ以来なので、25年ぶりだった。

ある程度分別がついてからの人生の方が長くなってしまったので、人間は理性とか冷静さとか、そういうものをベースに構成されているという思い込みが強くなってしまい、子供のように、欲望や言葉をストレートに発する個体と対峙すると、戸惑ってしまう。

都市圏では他人の子供に理由もなく近づくのは犯罪に近い行為だとされるところもあり、電車で小さい子供に声をかける大人もいないし、自分もそうだと思っていた。高校生くらいになったら、もう小さい子供が自分のような人間から話しかけられるのは怖いに違いないと思い、また、不審者だと思われたくないから、いわゆる「社会的弱者」であり「聖域」である子供には関わってはいけない、近づいてはいけないと思っていた。「変なお兄さん、おじさん」と言われれば社会的に終わりであり、それは無邪気な乳幼児だけでなく、悪意を持った小学生や中学生が言う可能性もあるからだ。

だから、その子がせっかく人見知りを緩和して近づいてきてくれても、こっちは、この子に自分が関わってはいけないんだ、とか、泣かせてしまったらどうしようと、ぎこちない態度になってしまう。子供はそういう「距離を置かれる」ことに敏感なのも知っているので、できるだけ自然にするのだが、なかなか25年のブランクは解消されない。

3.子供はどんな存在か

子供と切っても切り離せないのが学校である。学校は子供にとっての世界であるといってよい。学生である以上、学校から逃げることは原則としてできない。学校は治外法権が罷り通る無法地帯だということも認識していた。

私が身を置いた環境は甘かったので、帰宅部を貫き、有給休暇のように学校を休むことが許されていたが、そうじゃない環境も多いだろう。私は自分の学校ではなく「学校文化」が嫌いだった。体育会系、委員会系、行事リーダー系など、威張る理由を探して他人を支配することに満足を覚える人間が、いつの間にか上下関係を作っていたりする。あれは形を変えた暴力だと感じていた。

そんな学校文化が大嫌いで、今でも関わる学生時代の友人がいるにも関わらず、卒業アルバムもすべて破棄するほどに思い入れがない。子供は学校と切り離せない存在だ。子供が視界に入る時、学校からの登下校の場面であることが多い。群れて騒ぐ、友達にマウントを取る、先輩が後輩に威張る、そんな学校文化を感じる場面は、子供を目視する際にとにかく多いのである。だから「子供」=「学校文化」と変換できてしまい、子供と関わることが、間接的に、金輪際関わらないと決めた学校文化と再会しているように思えてしまうのだ。

4.人を育てたいと思うかどうか

「マネジメント経験はありますか」「部下を育ててみたいですか」という質問が就職面接、特に転職面接で多く登場する。この質問の意味を、私は理解できていない。人を育てるっていったいなんだ。人は自分自身で学んでいくもので、その学びは誰かから導かれ教えられるものなのか、そう思ってしまうのだ。人は人、自分は自分、違いから分かり合えないことやかみ合わないことは仕方ない、たとえ仕事をする上で支障があっても、その部分は諦めればいい。その程度に思っている。

裏返せば「人の成長に関心がない」といえるのだ。私が他人の成長に関心がないというのは主観であり、仮説であるが、スポーツ鑑賞に全く興味がないことがそれを証明しているかもしれない。世界的に注目されている野球選手やサッカー選手がいても、特に関心を持つことがない。自分とは無縁である他人がどんなに大きなことを成し遂げても、それは自分とは関係ないし、自分の国がどんなに素晴らしくても、それは自分が素晴らしいことにはならない。他人がどうであれ、自分を主語にして判定できる尺度がないと、人は滅びてしまうと思う。

だから「子供に○○になってほしい」「子供を○○な大人に育てたい」と嬉々として語っている人の気持ちが理解できない。子供の前に、自分自身がどうなりたいかも決まっていないのに、なぜ自分を放置して他人に期待を向けるのか。それは先ほどのスポーツ鑑賞も同じだ。「○○選手にメダルを取ってほしい」ではなく「明日自分が○○を楽しみたい」が私の思考軸にあり、自分が手や頭を動かして活動して満足すればそれでいいと思ってしまう。

それでも、今は妻が一緒に生活してくれていて、少なくとも妻が少しでも幸福になるために何かをしようとか、もっと○○を楽しんでほしいというような期待もあるので、これ以上他人に期待したり求めて、いったいどうするんだという感覚がある。

5.人はなぜ子供を持たなくなったのか

今の子供たちが虫を異常に忌避する傾向があることを問題視するニュースを見たことがある。私も虫は本当に苦手だ。

どれくらい苦手かというと、①駅近に住む、②夏と秋には近郊路線の郊外以上に自然が多いところには行かない、➂ベランダに洗濯物は干さず小型乾燥機と室内(送風)乾燥を徹底する、④家のドアの開閉も最小限の時間で行う、⑤仕方なく夏に実施する墓参りなどは雨の日に行く。

もはや病気と思われるかもしれないが、これくらい苦手なのだ。何よりもハチをはじめ、人間に攻撃してくるタイプの飛ぶ虫が苦手。少しでも影や気配を感じると違う道を通ったりする。昔は、男性なのに虫が怖いなんて、という意見もあったが、今は本当に虫嫌いが増えたと思う。

スポーツが嫌いな人が増えたのと同じで、男性が男性的な趣味嗜好から離れる傾向が確実にあると感じる。そして、この虫を避ける理由に「関わったことがなさ過ぎて怖いから、不気味だから」というものが多いと聞いた。残念な話ではあるが、これは子供にも共通している部分があると思う。

突然大声を出したり、怒り出したりするのは、突然飛んできたり、身体に止まったり、刺したりしてくるのと同じで、理性や理論で制御されていないから、怖いのである。電車内で不審な行動をとる人がいたとき、とりあえず車両を変えれて降車駅まで何とか我慢すればいいやと思うのと同じで、距離を置いて関わらないようにすればいいだけの相手と認識、処理してしまっている。だから自然と子供、子供の世界を避けるようになり、いつの間にか子供と無縁の社会に何年も身を置いてしまったということがあるかもしれない。

6.子供がいるメリットを考える

一方的にデメリットだけを列挙するつもりはなく、子供がいること、家族が増えることのメリットも同時に考えている。よく言われている「自分たちの老後をみてもらうため」というのはまったく思わない。前世のツケを払うために生まれてくるわけではないし、だったら足腰体力を鍛えておく方がよほ重要で、子供に面倒を見てもらえるから運動もしない人が多い中、そうはなりたくないと思う。そもそも労働のしすぎが確実に病気の原因であると個人的には思うから、そんな心配をする暇があるなら、検診と適度な有酸素運動と労働の抑制に努力値を割くべきだと思っている。

話がそれてしまったが、子供がいるメリットは、子供自身が幸福になれる可能性があること、妻が一人になったときに寂しくないことの2点だと思っている。

前者について、これから社会がどうなるかわからないけれど、少なくとも、資本主義が暴走したこれまでの昭和的価値観の時代よりは幸福な時代になるとも考えている。貧しくなったりハードモードになることもあるし、そもそもガチャに失敗することもあるのだから、生まれてくる事自体が幸福なのかとの問いかけに矛盾しているとも思われるが、もしまったく新しい価値観の世界や社会になったとしたら、それを見て経験して楽しめるだけでも、生まれてくる価値はあると思う。私も、自分が死んだ後にもっと世界が変わると思えれば、もう一度生まれてきたいと思うかもしれない。そう思い続けることができる人生であれば、子供も同じように生きていけるかもしれない。

死んだような眼をして労働をしている人たちの子供には、生きる幸福が伝わらないかもしれないが、私は今幸せであるし、生きていて何が楽しいか、もし子供がいたとしたらそれをたくさん伝えたいという気持ちが大きいので、これが意味の一つかなと思う。意味があるという観点で「メリット」としてしまったけれども、意味があることはポジティブにとらえていいと考えている。

後者については単純な話。私が明日や来月。来年死んでしまったときに、残りの人生を妻と一緒に歩んでくれる人がいたらよいなという自分勝手なメリットだ。介護をさせたい的なエゴと似ているので良くないかもしれないが、あくまでも起こり得ない原則の中で、子供がいる人生を想像した際に、何がプラス面かなと考えると、これが思い浮かぶ。

7.「イエ」と「家」に対する考え方

西日本出身の妻と話していると、子供を持つか持たないかの問題に、家の問題が複雑に関係していることがわかる。たとえば「長男は家を継がなければならない」という価値観。私からすると「一般家庭に生まれて何を継ぐのか」という疑問が湧くわけだが、一つの「〇〇家」が途絶えないように、長男(または長女)は、自分の実家に新しい家族を招き、そこに住み続けることが好ましいとされる文化があるようだ。

出生率が低下する中、出生率が比較的維持されていることは歓迎される見方があるが、実際には、体裁や周囲の年層者のために子供を設けている場合も少なくなさそうだ。妻の知人は、子供を設けることや自分たちの家を購入すること、住む場所などに、両方の両親が強く介入してくると話していた。息子や娘が自分たちが正解とする、期待する人生を歩むことが、田舎の老人の老後の楽しみになってしまっているようだ。

私には、家を継ぐために子供を設けるという観点が一切ない。そもそも、長男だから何かするという意識を持ったことが人生で一度もない。親も祖父も、そういうタイプではないからだ。ここで子孫が途絶えようとも、誰も気にしていない。気にしていたら、しつこく子供を設けることを勧めてくるはずだからだ。

勧めてくると言えば、執拗に子供を持ったほうがいいと話をしてくる知人も多い。そういう知人たちは果たして純粋に幸福の継承をする意味での子育て、家族構築をしているだろうか。そう思えない例もほどほどにあるだけに、その助言が恣意的なものや皮肉に思えてきてしまう。

いずれにせよ、私は妻がいれば十分であり、妻も子供を持つことを望んでいないので、今の生活のほうが、思いやりを100%妻に投入できるので、効率的でもあるから、無理に子供を持とうとはどうしても思えないところだ。

8.生命のリレーは続いていくべきか

少子化、人口減少を煽る報道は多いけれど、そもそも、生きている人が幸せそうに見えないこの社会で、日本人が増える必要はあるのだろうかとも思う。死んだような顔でゾンビのように会社に向かう連休明けの通勤電車の光景、向き合う時間がなくてすれ違ってしまう夫婦・親子、健康を損なうほどに立場の強い人間に忖度したり自己犠牲に走ってしまうほどの労働。我慢するために生きているような人が多すぎると思う。

愚痴を零して飲むのではなく、飲まずに済むように嫌なことを除去しようとする考えは少数派で、嫌なこと、ストレス、苦痛ありきの人生設計を前提にしている。みんな苦労しているんだからと、搾取される側の人間同士で互いを同調圧力で監視し、それを支配している人の怠慢は許してしまうマインド。相互監視して権利を剥奪し、不幸の横並びを続けていくそんな文化を見ていると、最初から幸福を捨てている人の多さを感じる。

不平不満ばかり言っている大人の男女が結婚して、結婚した後も不幸自慢をするような人生を歩んで、それなのに、子供を作ったりしているのを見ると、一体何なんだろうなと思ってしまう。

9.人類の繁栄は続いていくべきか

前章と重複する部分があるが、この問題も幼少期から感じているところで、少子化問題、人口減少問題をこれほどまでに問題視する人の気持ちがあまり理解できていない。1億人が幸福になれないのであれば、6000万人にスケールダウンして幸福を配分できるかどうか実験すればよいのではないかと普通に思うが、それでは駄目なのだろうか。

世界でも8億人が食料にたどり着けない状況が続いている。この人たちは生まれて生きて生かされて、幸せなのだろうか。そんなことを考えている余裕や暇はないし、繁栄は動物の本能だという意見もあるが、本当にそうだろうか。文明を手にした生き物が本能だけに従って生きることが幸福なのだろうか。そもそも、子孫を遺すことは本当に本能なのだろうか。有史以来、子孫を残さないことを本能とした生き物は本当に存在しなかったのだろうか。そんなことを考える。

話を日本に戻すと、あくまでも高度成長時代やバブル時代の常識、標準を永遠に繰り返す必要があるのだろうか。だとしたら、それはあまりにもその時代を生きた人の傲慢さだと思う。今の社会でルールを作っている世代の人達は、自分たちの標準でしか物事を語らないし、それ以外のことをまったく受け入れようとしない。自分自身もそうかもしれないが、少なくとも他人に何かを強制したり勧めることはしないようにしている。

話が逸れたが、何が受け継がれること、続くことが良くて、何を終わらせることが駄目なのか、その切り分けをしない限り、無意味に子孫を遺すことを肯定する思考には、私は至らない。

10.忙しいのがそんなに良いことか

先日、食事中にアマゾンのビデオを眺めていたところ、ドラマ「週末旅の極意」という作品を見かけ、1話と最終話を観てみた。お互い仕事で忙しい夫婦が、相手と向き合うための時間作りとして、週末に小旅行してのんびりするというドラマで、時間の余裕はパートナーと向き合うために必要だと改めて感じた。

子供がいる夫婦は今は共働きのケースが多く、男女のパートナーとして相手と向き合う時間が少なすぎると思う。何でもかんでも100%頑張ることが果たして正解なのかという疑問は永遠の課題になっている。

私は余白がある今の生活で、妻と二人で新しいことをたくさんできたし、価値観もかなり変化している。それが面白くもあるので、どうしても生活には余裕が必要だと思ってしまうから、カツカツな忙しさをイライラしながら切り抜けるような生活には、少なくとも今の考え方では、踏み込むことはないだろうと思う。

11.結局どう考えるかは自分たち次第

ここまで色々と書いてみたけれど、そもそも「持つか持たないか」や「持つ前提として」という考え方がないので、悩むことも迷うこともなく、「これまでもこれからも、今ある家族(妻)を大切に、楽しく生きていく」というシンプルな答えにたどり着くのみだった。


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