他人に見せない夫婦だけの場所
2冊の本を読んだ。結婚や子供に関する本だ。妻が親戚の結婚式に参加し、田舎に帰省した。色々なことが相互に絡み合う考察に没入した数日間の出来事を記録として残してみる。
ネタバレになるので本の内容を書くことはできないけれど、本当に興味深い内容だったし、自分の視野が狭いことを痛感する機会を無限に提供してくれるものだった。
「結婚の社会学」は結婚にフォーカスし、結婚や恋愛の時代背景などが詳細に解説されている。諸外国との比較や、男女の恋愛観、性に関する意識、宗教の影響、親が子に望む生き方、幸福論について、広く考える機会を与えてくれる。
「生涯子供なし」は、近代や現代の人間の生き方を広く俯瞰し、最近の問題、性の問題についても深く掘り下げている。子供を持たない「無子」状態に焦点を当て、人口政策などにも及ぶ現状分析を詳細に理解させてくれる。
2冊の本を読んで、最も考えさせられたのは、そもそも、結婚が子育てや家族形成を密接に考えられすぎだということ。
人と人が愛情関係になり、それが生活につながるというだけなのに、家の継承や親子関係が干渉して複雑化していく。結婚がそもそも「イエ」の行事であるという固定観念が結婚自体を難しくしているような構造に気付かされる。
ただ好きな人ができて、その人と一緒にいるから幸福で、それだけでいい、という話になることは少なく、仕事は何をしているかとか、子供はどうするのか、ということばかりを突っ込まれるのが、結婚へのイメージだ。
特にほとんどの人、親や親族は、仕事と子供のことにしか興味がないように思う。だから異性婚、子供を持つ人生、経済的な指標という前提があたかも結婚の目的であるかのような価値観が蔓延し、純粋に誰かを愛するということについては後回しになっていると感じた。
明治時代以降、国を強くするために強い家庭を築き、そこから子孫繁栄し、国に貢献するといった価値観や、イエの重視、長男、男が中心になってイエを支配する構造が基本軸になったことが多かれ少なかれ影響しているとわかった。
自由に好きな人と生きるというシンプルなことができない。自分自身は子供もいないし、特に長男だからとか男性だからイエを守るという意識がないので、これまでの人生で子供や家族というものを意識することはなかったけれど、やはり周りが求める結婚は「認められる結婚」であることが多いように感じていた。
この週末、妻が田舎の結婚式に参加した。妻の親族の結婚式だ。結婚式をしない人が増える中で、私が2年前に参加した友人の結婚式と同様、昭和型の結婚式が開催されていた。妻がビデオを撮ってきてくれて、それを二人で観た。小さな親族単位の結婚式なので、友人知人職場関係は含まれない。
最初に全員が自己紹介をするのだが、その際に、自分の職業を話すことを求められていた。あくまでも当事者の結婚式であるのに、親族が自分の労働の話をベラベラと喋る意味がよくわからないけれど、この文化においては、両家の親族がどういう労働階層に属するかが重要なのだろうと感じた。人柄や趣味ではなく、社会的に「正しいかどうか」を判定する自己紹介になっており、その人の良いところや面白いところを見ようという場面ではないのだろう。
妻は今、働いていないので、一瞬戸惑ったものの、適当にその場をかわしたようだ。「田舎に戻ると東京でせっかく自分が変わったのに、田舎の嫌な文化に順応しようとしてしまう自分、田舎のうるさい人達に合わせてしまう自分がいて嫌になる」と妻は話していた。
本を読んだ感想が「なぜ人は純粋に一対一の愛情関係を楽しめないのか」というところに落ち着いたところに、妻の土産話が重なって、この疑問や感想の正体が見えてくる。そもそもスタートラインからして、当事者同士の恋愛関係の優先順位が低いのだ。仕事や年収や親族や子作りが、明らかに「当人同士が愛し合っているかどうか」を凌駕する存在になっている。参列した結婚式の主役たちは、全員といえるほど「周りに自分たちの関係を認められること」に快楽や安堵を覚え、それが結婚式の盛大な開催につながっていると感じた。
話は変わるが、結婚や子供の問題を扱うこれらの書籍の中では、性に関する問題も深堀りされていた。そもそも、パートナーとの良い性関係が欠乏しているのが、今の日本社会における実態だということがわかる。夫婦のセックスレスの問題、自由恋愛に対する否定的な視線が歴史的に存在していた事実など、パートナーが当人だけの世界で互いへの愛情を感じる時間と機会が少なすぎると感じる。
個人的に夫婦のセックスレスは深刻な問題だと感じる。外国人である妻の友人も「日本のキャバクラという文化が信じられない。自分のパートナーを愛さないのか」と強く疑問を持っていた。私はそもそも人が嫌いなのと、接待をされるのが大嫌い、自分の世話を他人にさせるのが大嫌いなので、上司に誘われても断って帰るような人間だが、人々は、配偶者の悪口を言いながら、配偶者じゃない人間に良い顔を見せようとする。
自分で作った家族を大事にしないで他人に金と時間を貢ぐという謎の行為は、結局のところ、最初から当人同士が我慢せず思い切り愛し合うことを禁じられている・邪魔されているからなんじゃないかとも思う。
少子化や無子化が進む国ほど、イエ制度に執着する傾向も、諸外国との比較から理解できた。血縁関係があり、(世間体的に)健全な親族関係のもとに、イエを継承する都合の良い個体として生まれた子供でないと、祝福されないような社会が子供を減らしている場面も少なくないだろうということがわかった。
養子、ステップファミリー、同性カップルの子供、既存の枠組みではないパートナーとしての家族・結婚を普遍的なものと解釈している国ほど、子供が減っていない。恋愛、家族、性、親子などの要素を、全部「イエ」の中に詰め込んだ結果が、この窒息死寸前の少子化なのではないかとも思う。「入場したくないテーマパーク」としか思えないくらい、「子供を持つ人生」における、要求されるハードルが高いのだ。
そしてまた、結婚式の話に戻る。私も妻も絶対に結婚式はしたくないという考えで、子供がほしくないこと、結婚式をしたくないことを、結婚前に確認している。割と早い段階で、やりたくないことを確認することで、ミスマッチを防いでいるが、やりたくないことにこの2つが上がってきていた。妻は何百万もかけてこれをやって楽しいのか、嬉しいのかと言っていたし、それは私も同感だ。ただ私は別の理由がある。
それは、妻と自分のことを誰かに見せびらかしたり見世物にしたくないという気持ちだ。妻と一緒にいるときだけが、自分を100%出せる安心できる時であり、この「リラックスできる表情」を、第三者に鑑賞・干渉されたくないのである。夫婦だけの時間は、互いに他の人に見せない「素の自分」が出る。それを人に見られるのは恥ずかしいし、それを見られないために、恥ずかしいために、普段と違う自分たちを演じるのが嫌なのだ。
「よそ行き」の夫婦を演じるのが、とても嫌なのだ。だから私は妻と共通の友達付き合いや、夫婦同士の交際をしないことにしている。そういう「仮面を被った夫婦」になる瞬間が嫌だし、妻がいつものように安心して思い切り素の自分を出さずに繕っているのを見るのも、なんとなく嫌なのだ。
だから、別に周りに認められる必要も、祝福される必要もなく、大事なのは、妻がいつも通り笑っていることなのだ。そうできない場所や人間関係に大金を使いたくない。妻だけに数百万使いたいのである。
結婚してからの生活にも同じことが言える。私達は当たり前のように子供がいないので二人暮らしだけれど、これが親や子供との同居だったら、夫婦だけの会話や関わり、ちょっとふざけたことを言って馬鹿みたいに笑ったりすることが思い切りできない可能性がある。
これまでも書いてきた通り、単純にカップルが愛情関係を育む機会が相当に抑制されると思う。それは夫婦の性的関係の話だけでなく、普段から相手に感謝の気持ちを伝えるとか、愛情を伝えるとか、そういう「他の人に聞かれたくないこと」「他の人に聞かれると恥ずかしいからしないこと」を、強く抑制すると思う。夫婦には夫婦だけの時間が重要で、不可欠で、それを失う罠が文化の中に大量に潜んでいると思う。そして伝統的結婚式の中にも、その罠が既に仕掛けられていると強く感じたのだ。
夫婦仲が良いことが究極の幸福であると考える私にとっては、とても発見が多い一週間だった。
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