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点と線の人間関係、子無し主義の行く末

前回の記事で、点と線で人間関係を捉えることで、夫婦関係を唯一無二の尊いものだと解釈することができていると自身を振り返ってみたが、この思考が別の形で作用し、私に不可逆的な子無し主義を与えた可能性について考えてみる。

点と線…哲学談義のテンプレのような切り口だが、小難しく論を展開する技能が私にはないので、物語形式で書いてみる。

ニュースを見ていた。本格的な暑さがやってきた夏、休日のテーマパークには家族連れが集まっている。小さな子供にインタビューするテレビ局。無邪気に子供が話す。少しだけ生意気なことを言って得意がる子供、好奇心のままに食べ物やキャラクターを追いかけてはしゃぐ子供、ニコニコと笑う子供…どれも微笑ましい光景だ。念の為補足すると、眼の前でニコッと子供が笑えば普通にかわいいと思うし、反射的に可愛いと言うかもしれない。それがイメージであることがしんどいのである。

「かわいい」

子供のカットが映るたびに妻が言う。妻は子供を純粋に可愛いと思っているのだろうと解釈する。私も「そうだね。かわいいね」と乗る。本当は一ミリもそんなことを思っていないくせに

これが私がこれまで唯一、妻についた嘘である。すでに嘘ではなくなってしまったが。

子供を見ると反射的に可愛いと言う妻。自分自身が子供を育てる選択をしていないにも関わらず、子供に関する仕事をするほど、子どもの役に立ちたいという優しさに満ちた優しさを持つ妻。真似は私にはできないと思うくらい、子供に優しいし、甥や姪との関わりだけではなく、子供全般に好かれやすい。だから子供を可愛いと思う以前に、子どもの可愛さを引き出す方法を熟知しているように見える。

これは私の主観なのだが、そんな妻が子供に対して向ける「かわいい」という言葉、声の雰囲気は、子犬や子猫を「かわいい」という言葉、声とは違って聞こえる。言い方が最悪なのだが、子供に対して「かわいい」という妻の声は、「かわいい」という言語を発することに力点が置かれていて、反射的に可愛いという言葉が身体から放出されているのではなく、脳の処理を経て出ている言葉のように聞こえる。その処理の経過を感じさせる1秒未満の絶妙な間があるように思えるのだ。これは何度も観察していて、確かに私には感じる間なのである。

そしてこれは、私が他人から乳児を見せられたときの反応に似ているのだ。産休明けの同僚が職場に子供を連れてきた際、私は咄嗟に「かわいい」と反応した。まるで相手が喜ぶテンプレを演じるように。その時私は何も考えていないし、感情は動いていない。ただ、正解を言えばこの間から開放されると思うだけなのだ。子供を見せる、その後に可愛いと周囲が寵愛するという儀式を終えたに過ぎない。葬儀の読経でさえも息苦しく感じてしまう儀式への重圧から開放されるための「かわいい」なのである。たくさんの人に囲まれながら子供と関わると、正解を求められているようで、苦手なのだ。

この「たくさんの人に囲まれながら子供と関わる」というのが苦手だ。誰かに見られ、子供と関わることの正解を演じられるかどうか監視されている気がするのだ。子供らしさとそれを愛でる大人、その世界、その正解に迎合するか否かを、見張られているように感じるのである。

それがなぜ怖いのだろうか。それは「子供が残酷だと感じているから」である。言語を取得しない乳児が、数年後には人を死に追い込むほどのいじめを実行したりする。そうではなくても、他人に対してネガティブな言葉を思うがままに言う理性のない存在は恐ろしいのである。己の幼少期を振り返ってみよう。底なし沼の醜態を。

幼い頃、夕食の際に、柄の異なるお皿に料理が盛られることになった。子供だった私は、気に入らない柄のお皿が充てられたのが嫌だったのか、このお皿は嫌だと文句を言った。私が子供が嫌いな理由はこれで十分なのだ。こういう発言をする人間が、どうしても好きになれないし、苦手なのである。私の子供嫌いは、自分自身の幼少期を心底軽蔑しているからこそ沸き起こるものであり、人やモノを傷つける言動に対する並ならぬ憎しみなのだろう。

食べ物の好き嫌いをしなくなったのも、残された食べ物が気の毒だと想像するからかもしれない。そういえば、私が心底嫌うものはすべて「嫌っても相手が傷つかないもの(労働などの文化)」か「消滅してほしいほど心底許せない対象」に限られている。

若者が人との衝突を避けて誰とも本音を話せないという気持ち、子供時代から親にさえ気を遣ってしまうという気持ちが本当によくわかる。幼少期の攻撃性や本能的な行動の多くを恥じたのは、高校生くらいのときだった。子供ながらに垂れ流す、人の気持ちを慮ることのない言動の数々を恥じ、幼少期に蓋をしたい気持ちが増大し始めたのはここからだ。子供が思うがままにパワーを爆発する声を聞くと、無邪気や無知を盾に人や物を傷つけることをしてしまう子供の残虐性を意識してしまうのだ。

話が飛んでしまった。妻の「かわいい」の真意はわからない。それは妻に聞かないとわからないし、妄想だと思う。けれども、私が子供と対峙するときに、感情が無になること、異常な恐怖感に苛まれること、自分自身の過去に憎しみを感じることは明らかだ。そしてそれは、人間に対する私の捉え方が「点」ではなく「線」だからなのではないかと考えたところである。

子供を単純に可愛いと思えるのは、子供を点で見ているからじゃないかと思う。たとえば、私も猫カフェの猫を可愛いと思う。点で見れば。けれども、よく観察していると、猫カフェの猫たちにも強弱関係や上下関係があったりして、暴力を振るわれている猫がいたりもする。人間と同じで、平和一色ではないし、残虐性を持つ生き物だ。そう感じる時、猫が可愛いと頭では処理しつつも、自分はこの猫の世界に生まれたくないし、一緒に過ごしたくないなと感じるのだ。かわいい猫のワンカットではなく、猫の一生、猫の習性、動物の人生というように、どんどん線がつながっていく。

私は子供を点で見ることが苦手なのだろう。もしかしたら、対象が同じ人間だから点を線にする処理が早く実行されすぎるのかもしれない。子供を見ても、可愛いと思うときには、すでに線、さらに面へのイメージ移行が始まっているのである。子供、学校、人間、弱肉強食、意地の悪さ、人間関係、労働…というように。

子供が学校のいじめを苦に自殺する人数が年間で○○○人というニュースの直後に、地元の夏祭りの踊りに駆り出されてはしゃいでいる子供たちの映像が特集され、それを妻は「かわいい」と言った。この子達は本当にかわいいのだろうか。この子供たちのグループに仲間外れにされている子がいるかもしれないという可能性を私は捨てきることができない。明るく無邪気な子供が、共通の敵を作ることで一体感を醸成して団結するのが小学校の常であり、子供だから無実であると解釈することができないのである。

高校生や大人のいじめやハラスメントは酷いものだと非難されるが、この始発駅が「子供」であることから人は目を背けている。むしろ、始発点になる子供の残虐性にこそ、人間が人生で残虐行為を繰り返すリスク因子の発生源があるのではないだろうか。

妻は子供が可愛いと言うが、人間関係や人間は苦手だと言うと気がある。私も後者は同様だが、子供も末路は同じ「人間」であり、難しく醜く残酷な社会の構成員になることは変わりない。それを生誕後の限られた時間だけ神聖な存在として愛でるのが自然な反応なのかもしれないが、私にはそれができないのである。ある意味、子供を動物のように見ていない、子供を極限まで「対等な生き物」として見ているからこそ、忌避するのかもしれない。そういう意味では、私は現実としての子供の存在を真っ向から認めているのかもしれない。子供を子供として認知するか、人間として認知するか。それはフィクションをフィクションとして楽しめるか否かのような問いかけだ。

夫婦関係のように、文脈で考えることで愛情や関係性を大切にしようとする誠意が増す場合もあれば、文脈で存在を変換する作業が反射的に行われることで、盲目的に対峙するべき存在に対して、冷静に対峙することしかできなくなってしまうことがあるということは、忘れてはいけないことかもしれない。

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