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「子なし」についてのDINKs夫の考え
「子なし」の生き方について色々と調べている妻が、読んだ記事や書き込みなどを知らせてくれることがあり、それをベースに、選択肢や生き方について夫婦で雑談することがあります。その中で、昨日思ったのが以下のことです。
念のため断っておくと、不妊治療に取り組んでいる人の苦しみや苦労、お気持ちを否定するものではありませんが、もし不快に思われた方がいらっしゃったら、そのときはごめんなさい。
思ったこと→子供を持つか持たないかについての「親」サイドの議論ばかりが先行しており、肝心の「子供が生まれてから子供とどう生きていくか」という部分についての話がサイドストーリーになってしまっている考えを多く見かける
妻が最近興味を持って調べているのは「子なし」夫婦のパターン。
①明確に「子供はほしくない」という私達夫婦のタイプ(そもそも選択肢として子供を考えていない)
②「なんとなくいつの間にか子なしになっていた」というタイプ(仕事が忙しくてタイプ)
③「ほしかったけど諦めた」タイプ(妊活したり試行錯誤してできなかった)
以上の3つに分類できるだろうということを本で読んでから、これのどれに該当するのかと考えながら色々な人の人生を読むようになりました。
その中で、②や③のパターンに該当する人のエピソードを見ていると「他人との人生を比較して子供の有無について迷ったり後悔したりする」「自己実現や承認欲求と子供の有無を結びつけて考える」ものが非常に多いことがわかります。
「友達が結婚して出産して、自分だけ子供がいないことに空虚感を覚える」とか「子供がいないでどうやって配偶者とずっと仲良くやっていけるのか」とか「仕事も家庭も上手く行っている人と自分の人生を比較して云々」などなどです。
どれも当事者の気持ちは「確かにそうだな」と思うものが多いですし、比較社会でこうした悩みを持つのは自然なことなのかなとも思えるわけです。
一方で「生まれる子供を中心とした物語は一体どこに行ってしまったんだろう」とも思うんですよね。晩婚化や結婚の減少で、子供を持つことは誰もが普通に経験することではなくなったがゆえ、子供を授かるまでの段階(過程)がこれまで以上に「重大なライフステージ」「イベント」になってきて、子供が生まれてからのことはどうでもよくなってきているのかなと思うような意見を目にすることが多いように思います。
上手な言い方が見つかりませんが、大学受験で受験に合格することがゴールになり、そこまでのあれこれが物語の本編になり、肝心の大学入学後の学びについて無頓着になる空気と同じで、子供を授かるまでのあれこれ(婚活・妊活・他人との比較)が迷いや葛藤など物語の本編で、生まれてからの物語についてはその延長線になっているんじゃないかなと思うのです。
本当ならば、子供を育てる中で、人生が満たされたり自分を肯定できるようになるような「プラスの効果」があると、私たち夫婦は子なしながらも思いますし(逆に、子供を持つか持たないかという過程で葛藤したり悩んだりしたことがない)、「まあ幸せ100%が120%になる感じかな」くらいに思っています。
こうした「達成感」を得る地点が、「子供を持つか持たないかの選択と結果に満足する時点」にずれてしまっているように思えるのです。
「子供ができないからつらい」という気持ちは十分わかるんですが、「子供がいれば幸せだったのに」という前提で今を「満たされない」「つまらない」「つらい」と切り捨ててしまう、否定してしまうような言葉を見かけることが少なくありません。「子供さえいれば幸せになれるんだ」とか「自分が満たされないから子供がほしい」という意見を見ると、今度は「子供が思い通りに育ってくれない」という期待と欠乏の新たな表裏一体が待っているように思えるのです。
私たち夫婦はこれまで一度も子供を持つことを考えたことがないですが、仮に子供がいたらこういうことで楽しく遊ぶのかなとか、こういう日常生活なのかなと話すことがよくあります。それはおそらく、子供のように可愛いぬいぐるみたちと一緒に暮らしているからでしょう。
特にそれが「自分の自信につながる」とか「周囲の友人知人と比較し優劣を意識する」ようなものにはなりません。そして仮に子供ができてしまったとしても(できないようにはしていますが)、今の楽しい生活を同じように続けていこうねと話しています。だから子供を持つか持たないかが「悩む」ポイントであることさえも、もしかしたら理解できていない、そういう悩みを感じている人の気持ちがまったく理解できていないのかもしれません。それは「お互い他人に興味がないからかもしれない」などと、よく話しています。
自分以外の他者によって実現することを自己の幸福指標の内数にしないように、細心の注意を払っています。私の生活で言えば「妻が〇〇してくれたらなあ」みたいな願望を「それがないと不満」という枠に置かないということですね。「家事を分担してほしい」「稼いできてほしい」「自分の子供を産んでほしい」みたいな、偶然にもどの願望もないんですが、往々にしてこの「他人への期待とその結果の乖離による不満」に苛まれている人が多いように思うのです。これらの願望は全部「自己の目的意識や達成指標の外」に置いたほうがいいものだと考えてます。
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実際には多くの人が以下の図のように考えてしまい「〇〇がない」「誰々が〇〇してくれない」と、不満ありきで幸福度をとらえてしまい、子供についても。隣の芝生は青く見える現象による「〇〇は順調に仕事も育児もこなしているのに」的な思想になってしまうんじゃないかと思うんです。このような欲も時に必要だとも思うんですが、100点満点の基準に自分以外のものを入れすぎてしまうと、実現不可能な理想ばかりに囲まれてしまい、幸福から遠ざかってしまう、今あるものの貴さに気づかなくなってしまいます。
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これらに加え「固定的な結婚観」も、「子なし」で悩む人を苦しめる原因になっているんじゃないかと感じますね。お金も人も減っている変化の著しい時代に、昭和30年代に作られた人生のテンプレートをゴールにすること自体が危険なんじゃないでしょうか。25歳から30歳くらいで結婚と出産を経験するべきだ、的な考えがまだまだ根強いと思いますが、本当にそれを貫き通すことが幸せならば、10代後半から結婚を考える必要がありますし、結婚や育児などの家庭の問題を「労働の事情」なんかで我慢したり犠牲にしたりすることはあってはならないと思うんです。
しかし現実はそうではなくて、若すぎる妊娠は無計画だと非難され、20代前半は労働者として私生活を犠牲にして無理を強いられる。疲弊した状態で焦って結婚して、焦って子供を考えて、周囲と比較してブルーになって、それでやっとの思いで子供が生まれて、でもその頃にはネガティブな感情や減点主義の人生観にすっかり溺れてしまっている。そんな経緯を辿ることにより、子供が生まれたのに結局不幸なままである人が少なくありません。一体どうすれば幸せなのか、無限にある不満は、誰や何が解決してくれるのか、それに向き合わなければ、幸せを感じる感性が獲得されないんじゃないかと思うんですよね。
新しい生命が誕生する、家族が増えることって本当に素敵なことだと思うんですが、実際にその生命がこの世にやってきたときには、迎え入れる側が疲弊しきってしまい、幸福を感じることができなくなっているような状態では、生まれてきた子供としては「自分はなんのために生まれてきたんだろう」ってなるんじゃないかと思うんです。
自分に自信をつけるためとか、生きた証を残したいとか、普通の人と同じように生きたいとか、そういう動機でも良いとは思うんですが「子供がいない、子供を授かれない人生は悲しいものだから、一生懸命子供を持てるように藻掻きました」という物語が全面に出てくると「苦労して頑張って子供を作ったのに…」という期待と不満の裏返し現象がその次の段階でも発生してしまい、当事者である生まれてきた子供にとっては、ますます「意義」がわからなくなってしまうような、そんな感覚を持ちました。
先ほども書きましたが、「子供を持てないから満たされない」と決めつける先には、仮に子供が生まれてきてくれても「〇〇だから満たされない」が待っているかもしれません。
条件付きではなく、単純に「今」「この状態」の生活で幸せを見つけて、さらにその先に「ケーキの上のイチゴ」のような形で、トッピングを楽しめたらラッキー程度に考える私たち夫婦は、無欲で変わり者なのかもしれませんが、毎日ストレスなんて全然ないですし、悩んでいる暇もないので、相性がよければオススメな思考です。