幸せのハードルが下がること
学生の頃は人からバカにされたり見下されたりすることを良いことだと思わなかったけど、最近は、人からバカにされたり見下されたりすると、とんでもなく嬉しくなる時がある。
なぜなら、それは、バカであることを許してもらえる自由を獲得したことに他ならないから。普通の世間体や価値観に迎合していないことを揶揄されるということは、自分がその自由を行使し、それを他人がわざわざ非難するほどに生き生きとしていることに他ならないと思っている。
コロナ以降、幸せのハードルがどんどん低くなっている。それは結婚だけが理由ではなく、結婚前から、自分はとんでもない幸福者だと確信するようになっていた。
自粛生活で単調な毎日に多くの人が気を病む中、朝起きてトーストを焼いてコーヒーを淹れてラジオを聞いて、こうして自分の考えたことを文章にして、そんな日常がとても楽しくて、366日それの繰り返しでも、自分でそれに味付けしたり色付けしたりして、毎日が新しく違うものになっていく、それで十分だと思うような気持ちがどんどん強まっていった。
余白を自分なりに埋めていく、書き込んでいくのが人生で、自分で自分を楽しませるのが人生だと思うようになった。
そうなると、多くの人が「欲張り」に見えてしまうし、周りの人は私のことを「無欲すぎる」「まだ若いんだから」と窘めることが増えた。そういいたくなる気持ちも理解しているものの、ないものねだりをして今を楽しまず、気づいたときには何も満たされずに高齢者になるよりは、遥かにマシだと思うし、私は寄り道やよそ見をすることこそ最高のエンタメだと思っている。
テーマパークや派手な旅行はあくまでも他人から与えられたものを楽しんでいるにすぎず、自分が自分をどうやって楽しませるか、自分が何に幸福を感じ、好奇心を駆り立てられるかが見えていない。それを可視化する作業が、人に生まれてきた意味なんじゃないかと考えている。
寝る前に妻とどうでもいい雑談をしたり、朝起きてゴミ出しをしたり、洗濯物を干したり、妻がスヤスヤ眠っている様子を眺めて、その横にちょっとぬいぐるみを連れてきて一緒に寝かせてみたり、そんなどうでもいいことが、全部幸せだと思う。