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子なし夫婦の夫婦仲について~後編~
前回の記事では、妻が自分自身のことを謙遜しなければならない現状について分かった。だから他人が向けてくる「夫婦喧嘩しないの?」などというネガティブな話題に反応したり、予防線的に「(良い)けど、喧嘩することもある」のような自己卑下(夫婦卑下)をしてしまうとのことだった。
そしてそれは交友関係において同じ境遇や生活環境、人生観を共有していることが親しさを継続させるポイントであり、満足度や幸福度に優劣や差異が生じると、関係がギクシャクしてきてしまうという悲しい現実があることも理解できた。
さらに深夜の夫婦の会話は続き、妻が私の「年1程度の交友関係」を羨ましいという話になった。ものすごい発見をしたので、最後に記載する。
繰り返している通り、私は友達が極めて少ない。学生時代には友達と呼べる人が20人程度いたはずが、今は蒸発した友達を除けば、知人以上でいわゆる親友と呼べる友達は誰もいない。自分が苦しくなった時に急に連絡をして話をするような友人は誰一人としていないのだ。
先日、あるドキュメンタリー番組で、深夜のスーパーが取材されていた際に、高齢離婚して一人で生活している初老の人の話を見た。その人は「自分は孤独であることを受け入れ、覚悟して生きている。孤独だけど、その分自由や気楽さを享受しているから、これでいいんだ」と話していた。私も友達という観点で言えばこの人物に近く、孤独を楽しんでいる分、孤独を覚悟する義務があるとも思っている。
もちろん、妻という安全基地があるので、桁違いの温かさではあるが、それでも、寂しいとかそういう感情も、もうしばらく消えてしまったなと思っているし、大学時代から、一人でいるほうが心の奥底では好きだった。ドアを締めて自室にいると落ち着くような性格は22歳の時点ですでにあったように思う。
一方、友達がいないからこそ、そこまで親しくないけれど、それなりに優しさを交換できる人は大切にしたいと思っているのだ。床屋のマスター、いつも郵便配達にきてくれる担当の人、スーパーの店長さんのように、自分の生活の中で関わる人、何かの縁で別れた後も連絡を取ろうと決めた人、自分の人生に影響を与えた人、などである。
そんな人間関係が羨ましいという妻。私からしたら、妻のほうが交友関係も広いし、どこでも誰とでもやってこられた妻はすごいと思う。じゃあなぜ妻が私を羨ましいと思うかを聞いてみると、妻は「自分はそこまで周りの人に自己開示できないから」と言っていた。
他人に自己開示できない理由を「相手が予想できない反応をしてくるのが怖い」からだと妻は話す。この「予想できるかできないか」というのが、妻の人間関係や生き方に大きく影響していることが分かった。
妻はよくネタバレを見る。映画やドラマのネタバレを見たり、これから出かける場所の情報を「もうそれ現地に行かなくていいんじゃないか」と思えるほどに見る。Z世代が「最初に結果を見て安心して本編を楽しみたい」というような感情に似ているようだ。
それが人間関係にも影響していて、妻は何か予想外のことが起こることを回避しようとしている。だから事前に「どうすれば場が上手く収まるか」というイメージを作り出し、そのとおりに相手に合わせたり、他人に気を遣ったりすることで、予想通りの「場」が進むことに、安心感を覚えるようだ。
その習慣ができた経緯はいろいろあると思うが、他人から責められることが多かったから、事前に他人の想定外の動きを予防したくなり、それが自身の行動や選択に影響しているようである。
夫婦関係でも、この部分の考えの差を感じることがある。
私は他者と共生することができないに人間で、自分以外の人間を自分でコントロールすることは完全に不可能であると思っており、それゆえ、他人には一切のことを期待しない。運動会で一丸となって勝つみたいなことは馬鹿らしいことだと思っている。たとえば、4人での400mリレー競技、自分で制御できない他人の走りに期待するなんてギャンブルそのものであるし、自分が400m全部走るならともかく、75%もの区間を他人の体力や脳に依存するのに、なぜそこで「勝つ」なんていう都合の良いことを期待できるのだろうか。非常に馬鹿げていると思うのだ。
その考えのベースは妻も同じなのだが、妻には「それでもみんなで上手くやらなければならない」という考えが根付いている。プラスを願うんじゃなくて、マイナスの発生を防ぎたいと思う心理に近いと思われる。それは親や教師や職場の上司の言葉(洗脳)、公務員だったことが影響しているという。
これが決定的に違う。私は「コントロールできないんだから上手くやる必要もない」「自然体にして、他人が怒ったり否定したりしてきても気にしなければいいだけだ」と思うからだ。
私は自分の考えや行動を気持ち悪いほどに誰でも例外なく綴るし「どうせ否定されるんなら好き勝手に近況報告を書いて、それを面白いと思う人を釣り上げる方が良い」と開き直っているのである。「どうせ自分には友達は一人もいないんだから、最後には一人ぼっちなんだから」と割り切る。失うものがない分、自分のやりたいように、他人に迷惑をかけない程度に、自分の言いたいことを言おうとしているのだ。
妻はそれが苦手だという。みんなで集まっても、第三者的な立場で場を観察し「上手く」「穏便に」済ませることを考えてしまうという。それは本当に普段の場面に表れている。自分が遠くから眺めているように思う時があると言う。
夫婦で共通の友人と関わる場面を例にして考える。一緒に食事をしたり、飲んだりする程度だが、年に1回程度は会う。このほか、親戚と一緒に会ったり、イベントに参加したりする「夫婦と他者」の場面で、この傾向がよく出るのだ。
妻は何か焦っている。飲みに行くとなればお店を決めなきゃとか、何時に誰々がここに来るから、こう動かなきゃとか、段取りを組もうとするのだ。行き当たりばったりでいいし、何か希望があればどっかのお店をみんなで探すくらいでいいのではないかと適当にやろうとはしない。みんなの希望を聞いて予約しようとする。
たとえば、店が閉まっていると、私は適当に「じゃあみんなで適当に散歩するか」となるが、しばらく店が決まらないと妻は焦りだす。複数人いるんだから、自分が見つけなきゃいけないなんていう決まりはないにもかかわらずだ。それは親切で優しくて良いことなんだが、「決めなきゃ」という焦りが全面に出ていて、楽しそうじゃない時がある。
同じように、複数人で飲んでいても、妻は私の発言を注視していると感じることが多い。妻の中で台本があり、これは話していい、これは話してはいけない、〇〇さんに対してはこんな話はしてもよくて、これは言わないほうがいい、みたいな基準があるのかなと想像していた。
それを妻に聞いてみると、そのとおりだったのだ。台本までは行かなくとも、相手がどういう反応をするかを気にしながら関わっているという。だから、私のように投げやりでいい加減な人間関係の楽しみ方をするのを見ていると、ソワソワすることがあるという。
確かに、普段はニコニコご機嫌で、私は妻のその顔がとても好きなのだが、第三者と会っているときには、その笑顔が弱まっていることが多く、私に対する態度もいつものようにリラックスしたものではなく、強張っているように見えるのだ。
特に、普段の私達はかなり仲が良いので、第三者といるときの妻は、私に冷たいように感じるのである(逆にそれだけ仲が良い事なのだが)。それはなぜなのかとずっと思っていたが、妻は私が想像していた以上に、人間関係に「正しい形」を定義づけ、それに縛られていた。
私自身も、こうやって「ちょっと冷たく感じるなあ」と思うということは、普段から妻にとても優しくされており、それがないと物足りない、嫌な感じになるほど、妻に心を開き、ある意味、優しくされたいと期待しているのかもしれない。こうした感情は妻以外の人に対して持ったことがなかったから、やはり唯一無二の存在なのだろう。
妻が料理嫌いなのも同じ理由で、完成形にしなきゃと考えすぎて、完成形にするという目標以外を楽しむことができなくなっているようだ。対人関係もそうだが、妻は「人と上手くやる」ことに注力しすぎて、それ以外のことを楽しめなくなっているようである。それは決して妻自身の問題ではなく、環境や他人がそうさせてきたことを、これまでの話から強く感じる。
そう考えると、人に自分を開示しない妻が、なぜ私には心を開いてくれるのかが不思議だと、数年間思っていたところだが、もしかしたら妻も私にとっての「薄く長い付き合いの友達」の候補の一人だったのかもしれない。付き合いが長く続く人物たちが、私のことを少なくとも連絡を続けたい相手だと思ってくれるように、物珍しく、害がなく、安心できる存在に思ってもらえたから、一緒にいたいと思ってくれたのかもしれない。そんな結論が思い浮かんだ。
だとすれば、私は妻と親しくなった当初から「一対一」の時間を多く取っていて良かったと思った。コロナがそうさせてくれたわけだが、もしこれが、グループ単位で何度も集まるワイワイした場で作られる関係だったら、妻は私のことを好きになってくれていなかったかもしれないからだ。集団や複数人の中で「上手くやろうとしない」私のことを。
互いに相手をシンプルな視線で見ることができたからこそ、私たち夫婦の今があるのかもしれない。これも自分の人生の中で、とても運が良かった出来事なのだろうと思う。感謝しなければならないことだなと。
今日も会社の飲み会を断って定時で帰宅する。夕飯を作るのが楽しみだ。買い物が楽しみだ。長期休暇が明け、そんな日常がまた始まる。今年はどんな新しいことが待っているかなと思いながら。