死より怖いもの 〜死ぬならがんで死にたいと思っていた私が、がんになって〜
病気発覚から、ひとつずつ選択が始まる。
乳腺クリニックで見つかっただけに、どこの病院で治療をするのか。
手術はいつするのか?
どんな手術をするのか?
(乳がんの手術は乳房温存手術(部分摘出)、乳房切除手術(全摘出)、全摘の場合に再建するのかしないのか、それを同時にするのか二次再建にするのか、
そのほか手術しない凍結療法などなど)
セカンドオピニオン行くのか?どこに行くのか?いつ行くのか?
手術後の抗がん剤治療はするのか?
どんな抗がん剤治療にするのか?・・・
病気がわかった後、すぐから矢継ぎ早に選択の連続だ。
ひとつの扉を選んで入ったと思ったら、また次の扉が待っている。
病気がわかったショックから立ち直る間もなくさまざまな選択をしなければならない…、とよく言われるが、
実は病気がわかった時はそんなにショックを感じなかった。
「そう来たかぁ」っていうのが最初の感想。
がんがわかった後、病理検査でがんのサブタイプを聞きに行って「トリプルネガティブです」と言われた、この時はちょっとショックだった。
心の中で繰り返すように「トリプルネガティブ、予後不良」とつぶやいていた。
ただね。
「予後不良で再発したらどうしよう」と心配するよりも、治療の間、ずっとぼんやりと私が考えていた問題は、「死に時を間違えていないだろうか」だった。
今からすごく不遜なことを言います。
人の命の話なので、不快な思いをする方がいるかもしれません。自分でも、きっと将来「あんなこと考えていて浅はかだったなぁ」と思うかもしれないけれど、この時期にこういう思考をしていたのは確かなので書き残しておこうと思う。
この頃、不安だったこと。
一所懸命にがんを治して長生きして、その後になって他の病気や老いで苦しんで「こんなことなら、あの時がんで死んでおけばよかった」なんて思わないだろうか、と。
以前から、看護師たちと「死ぬならがんがいいよね」なんて話をよくしていたんですよね。がんは少しずつ悪くなり、最後の時間がなんとなく読める。家族と最後の時間を過ごすこともできるし、大切なことは言い残せるし、痛みはモルヒネで飛ばせるし、残り時間がわかれば時間やお金の使い方もある程度計算できる。
何年か前に在宅医療をしている緩和ケア医と話をしたことがあった。彼は私と同じ年だけれど「健康診断なんかするから病気がはやくわかっちゃうし、治したくなっちゃう。少しずつ体調が悪くなって黄疸が出てきて、そうやって自然な死を迎える方が幸せだよ」と言っていた。その時、たしかに同意した私がいた。
その「がん」になったのだ。
自分でしこりを見つけて、検査に行ったのだ。
う〜、治すべきなのか??
ちなみに医者は「治しますか、どうですか?」なんて一切聞かない。病気になったら治すものだと思っているし、まぁ、治したいから病院に行くわけですね。でもそのまま敷かれたレールにのっていいのか?もしかしたら、私が無意識に求めていたものをかみさまが与えてくれたのに、それを拒否しているのではないだろうか、なんて極端なことを当時考えていた。
これがもっとステージが進んでいて「今の医療だと手の施しようがありません」と言われれば覚悟もできたが、サブタイプは良くないが1.5センチとまだ小さい。生死の問題ではない病気だと思う。早期の乳がんは治療方法が確立しているからこそ、特別なことをせずに標準治療で淡々と進むのが普通だ。
がんになると選択がたくさんある、と言ったが、それは半分本当で半分ウソだ。「本人の選択」ということになっているが、医療者がすすめる方に「そうですね」と乗っていけば、選択なんてしなくても自動的に進む。そちらを選択しないということは、普通通りに進んでほしい周りと戦う選択をするということになる。
70代・80代の死でも「まだ若いのに」「まだこれからなのに」と言われる現代で
55歳で早期のがんで「ここまででいいです」なんて言ったら、
「生きたいのに生きられない人がいるのになんて贅沢な」
「あなたの命はあなただけのものじゃない。家族の気持ちになりなさい」
「人生いまからなのに。今からいろんなことができるよ」
反論はすべてわかっていたし、それらは全部正論だし、私の近くにそんな人がいたら、私もそう言うだろう。
そして「治療はしないです」なんて言う勇気も、私にはなかった。
治療が進み、治療が終わり、日常が戻り、今はこれで良かったと思っている。がんという病気のことを少しずつ忘れ、意識は死から生に向かっている。
あの時、無治療を選んでしまっていれば、私は今もがんに心身をとらわれたまま、自分の死を見つめながら生きているのだと思う。
今回はじめてわかったことがある。
私は「死」より「老い」や「心身の痛み」が怖かったのだ。
「死」は一瞬の無であるが、「老い」は少しずつ進行していく。
「私」という身体や意識がじわじわと蝕まれていくこと、そこに生じる「痛み」の方が怖かった。
「死ぬつもりになればなんでもできる」って言う人がいるけれど、私には死より怖いものがあったのだ。
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