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5月号座談会「人新世とデザイン」(前編)

今月のテーマは、人類の時代を意味する地質年代「人新世」とデザイン。人間の活動が地質学的な水準にまで影響を及ぼす時代に、デザインはなにをしようとしているかを考えていきます。

キーワード:人新世、資本新世、植民新世、クトゥルー新世、樹脂世

1.人新世とは?──人間中心主義からの離脱

瀬下:先月の創刊対談では、いわゆる専門家としてのデザイナーだけではない、利害関係者なども巻き込みながら、デザインのプロセスを意識的に設計する「デザインリサーチ」を取り上げました。今回はそこから一気に壮大な話になるわけですが……。

読者の方々にこの言葉がどれくらい馴染み深いのかわからんのですが、世界的には2000年からこの話がされ始めたわけなので、結構時間が経っている。日本国内では、2016年に国際地質会議で人新世が地質年代として認められるようになったあたりで、ニュースがたくさん出た。小咄的なレベルだと、魚の体内からマイクロプラスチックが出てくるようになったとか、気候変動が起きてるとか、人間の影響で地球規模の変化が起きているということ自体は理解に難くない。

いまでは、科学書やサイエンス系のムックが特集を組んだり、また人文・社会系の雑誌でも『現代思想 2017年12月号 人新世 ―地質年代が示す人類と地球の未来―』がこの言葉を扱っている。より詳しい解説は、こちらの記事「人新世(アントロポセン)」における人間とはどのような存在ですか?|10+1 website」がいいかな。

太田:前回との対比で言うと、人間を扱う──とりわけ質的調査ベースの──デザインリサーチの手法と比べると、人新世の問題にアプローチするデザイナーたちは、「人間」というより「人類」にフォーカスしている傾向がありますね。

人新世という言葉が化学者のパウル・クルッツェンと生物学者のユージン・F・ステルマーによって提唱された2000年から数年後、デザインの言説においても人新世のような世界観を打ち出していた人がいます。それはブルース・マウというエディトリアルデザインの大家であり、デザイン思想家と呼べるほどに影響力を持っている人です。

マウがInstitute without Boundaries(トロントの学術・教育機関)と共に企画・編集を手がけた書籍『Massive Change』(2004年)──ちなみに同テーマで同名の大規模な展覧会も2004–2006年にかけて開催されました──が、デザインの言説においては一つの人新世的なエポックだったとぼくは思っています。

この本の主張を一言で言うと、21世紀は細胞から惑星までをデザインする時代に突入し始めたぞ、ということ。生命工学などの先端的な技術はデザインが扱う領域を大幅に拡張し、そのときデザインは世界規模で多大な影響力を持つようになる、と。下図はそのようなマウの世界観を表したスケッチです。

瀬下:この図は、「自然」が「デザイン」の中に入り込んでるのが印象的ですね。人間はビジネス、カルチャーのみならず、ネイチャーもつくってしまっている。まさに人新世っすね。

こういう問題意識のデザインは、日本だとWIREDで岡田弘太郎さんがたくさん紹介してくれている。たとえば、下記のシリーズがあります。

“人工花”が都市の昆虫を救う:オランダ人デザイナーが実践する「自然回復のデザイン」|WIRED.jp

ロボットとの共生は「やわらかさ」から始まる:「ロボット、動物、あらたなる自然との共生」(1)|WIRED.jp

「カラス」と「カラス型ドローン」が分け隔てなく空飛ぶ世界へ:「ロボット、動物、あらたなる自然との共生」(2)WIRED.jp

地球は「生物圏」から「技術圏」に進化する:「ロボット、動物、あらたなる自然との共生」(3)|WIRED.jp

上のいろいろな事例を見ていても感じることだけど、地質年代の話から来ていることもあって、人新世という言葉にどんなニュアンスを込めているかは人によってバラバラだよね。環境問題みたいな感じで捉える人もいれば、どこかサイバー感のある世界観を表現するためにこの言葉を使っている人もいるような。

太田:そうだね。人新世を巡ってはさまざまな論点や立場があって、まったく一枚岩ではありません。例えば、人新世を人間中心主義の徹底と見なす立場もあるし、人間中心主義の突破すなわちポスト人間中心主義と見なす立場もある。コンセンサスが充分に取れていない。ぼくは今日のところはひとまず、ポスト人間中心主義の人文思想として人新世を扱っている、ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン──新しい人文学に向けて』の議論に依拠して話を進めていきます。

まずブライドッティの立論から簡単に説明しますね。哲学者にしてフェミニズム理論家である彼女は、人新世の議論やポスト人間中心主義の勃興、自然と文化の二項対立をなし崩しにする科学技術の発展などを受けて、社会構築主義が掘り崩されつつあると指摘しています。「ひとは女に生まれるのではない、女になるのだ」(シモーヌ・ド・ボーヴォワール)という考え方は現代において立ち行かず、所与のものと構築されたものとの二項対立に取って代わる一元論的な哲学、すなわち「ポスト人間中心主義的なポストヒューマニズム」が必要なのだ、と。

「マルクス主義やフェミニズムやポスト植民地主義にもとづく分析がとる社会構築主義的なアプローチは、ポスト人間中心主義的ないし地球中心的な転換によって生じた時間的・空間的尺度の変化に歴史家たちが対処する道具立てとして完全ではない。こうした洞察が、わたしが弁護しようとしている徹底したポスト人間中心主義的立場の核をなしている」(ブライドッティ前掲書、門林岳史監訳、フィルムアート社、2019年、128頁)

ポスト人間中心主義的ないし地球中心的な転換による変化、とはいったい何でしょうか。それは動物への、地球への、機械への生成変化という三つだとブライドッティは言います(以下はとてもざっくりとした要約なので、興味を持たれた方はぜひ一次文献を!)。

【動物への生成変化】「種を横断する連帯の認識」
  →ミクロには、生命工学やゲノム編集の技術の発展を受けて、ブタやマウスのような動物の遺伝子が人間の臓器移植の実験のために使われたりすること。マクロには、惑星規模の環境問題によってヒトという種とそれ以外との共生が問題化されていること。

【地球への生成変化】「環境および社会の持続可能性の問題」
  →惑星的次元──気候変動、環境問題、絶滅の意識など──から「人間」の概念を再考し、ポストヒューマン的主体を考えること。ただし、主語として想定されうる「人類」や「アントロポス」(人新世下の人間)が、個々の差異を均してしまう危うさ含みのものであることに注意が必要。

【機械への生成変化】「人間と技術的回路の区分に亀裂」
  →ポストヒューマン的主体にとっての技術的媒介を成すもの、例えばサイバネティックス、バイオテクノロジー、遺伝子工学、情報技術などを考慮すると、「動物が惑星という生息環境と取り結ぶ共生的関係性にも似た」仕方で、人間と技術が結びついていることがわかる。

2.人新世/樹脂世下のデザイン運動──「加算主義」

瀬下:めちゃくちゃ面白いですね。ちょっと理論の話に寄りすぎているので、もうちょい作品や作家の話もしよう。この言葉の周辺には、いろいろ一種の運動というかムーブメントというか、作家たちが集まって行動する雰囲気が出てきてますよね。

太田:まさにそうで、人新世下で政治的/美学的運動を志すような「加算主義」(#Additivism)っていうムーブメントが2015年からあります。これがすっごくイケてるので紹介させてください!

趣旨を一言でいうと、3Dプリンタ(へ)の想像力/創造力を拡張する運動です。まずタイトルの由来を説明しますね。西欧圏では積層型の3Dプリント技術を「加算造形」(アディティブ・マニュファクチャリング)っていうんだけど、その言葉と「アクティビズム」を組み合わせた混成語がタイトルです。作家は、イランの美術家/アクティビストであるモレシン・アラヤリ(Morehshin Allahyari)と、美術家/ライターのダニエル・ローク(Daniel Rourke)、この二人が立ち上げました。

http://www.top-ev.de/event/the-radical-outside-an-introduction-to-additivism/

瀬下:ちなみにアラヤリの作品は日本語だと、『アーギュメンツ』3号に訳出された「アジア的未来主義と非–他者」(シン・ワン)って論考でも取り上げられていましたね。

太田:アラヤリとロークの主張によると、3Dプリンタというのは──人新世はもちろんのこと──「樹脂世」(Plasticene/Christina Reed)という世界観から現代を見たときに、すごく重要な装置あるいは文化的形象なのだそうです。

3Dプリンタが使うプラスチック樹脂って、石油化学で作られます。で、石油って(有機起源説に立つ限りでは)古細菌や藻類が堆積した地層を化学処理して作られるわけですよね。とすると、3Dプリンタはじつは、地球時間的な厚みを持った原材料を別のかたちに変換するものとして考えられるわけです。海洋プラスチックの問題は人新世の環境汚染に関してよく取り上げられるトピックですが、そこにフォーカスして造語されたのが「樹脂世」であり、ここに応答するのが加算主義だ、という理解でよいと思います。

加算主義は『3D加算主義レシピ集』(3D Additivist Cookbook)っていう作品を作っています。これがめっぽう面白い。3Dプリンタで出力するためのレシピをたくさん載せたPDFドキュメント(無料配布)なんだけど、虚実が不穏に混じり合ったレシピ集なんですよ。例えば文明崩壊した世界で生き延びるためのサバイバル・キットとか、エアコン室外機からの排熱にパラサイトする小型の風力タービンとか、カメが海中のプラスティックから自分の身を守るために着ける外骨格とか、サイボーグ伝書鳩のための外骨格ってのまである(笑)。レシピの内容はこういう感じでフィクションも含んでいるのだけど、それぞれの3Dデータ自体はリアルで、実際にダウンロードして3Dプリンタから出力することができます。さあ、あなたもポストアポカリプスをサバイブしよう! みたいなノリ。

瀬下:ぼくもこの冊子はすごく面白いと思った。3Dプリンタや「ものづくりの民主化」と聞くと、田中浩也さんが『FabLife』『SFを実現する』などの著述や大学での活動を通じて日本に定着させたファブラボが浮かびますね。

3Dプリンタとその利活用をグローバルに展開・支援するファブラボ・ネットワークは2002年に立ち上がって、もともとは自立・分散・協調型のインターネットと60年代カウンターカルチャー以来のDIY思想とが結びついたっていう工学畑の性格が強かったよね。ファブラボはアメリカのMITで生まれたムーブメントだけど、ヨーロッパだと加算主義みたいになってると考えればいいのかなあ。

太田:そうだね。ファブラボ的な動きのダークなバージョンが加算主義だと思っています。ただ、加算主義の政治的な側面というのは、ヨーロッパのアート&デザイン界隈では胚胎されていたとも言えそうです。3Dプリンタ関連の動きがヨーロッパでは2000年代後半から10年代中盤頃までに輪郭が出来上がって、『オープンデザイン』というデザイン運動になっていった。オープンデザインを見ると、「批判的ものづくり」(Critical Making)だとか、けっこう過激な色合いを帯びてたものが当時からあったんですね。

瀬下:加算主義の思想的な背景はどういうところにあるんだろう?

太田:加算主義者たちは活動のマニフェスト「加算主義者宣言」を発表しているので、これを読むと、サイバー・リバタリアン的な思想が読み取れます。武装テロに対する自衛のために3Dプリント技術を使おうと主張したり、アンチDRM技術の肯定など。それと同時に、この『レシピ集』自体がBitTorrentというファイル形式の──しばしばアングラ用途に使われもする──P2Pネットワークに放流されているのです(ただし普通にサーバからのダウンロードも可能)。だから仮にも何らかの問題が生じて政府当局がこのドキュメントの配布をシャットダウンしようとしても、極めて難しい。なぜかというのはTorrentの技術的な仕様と関わっているため詳細は省きますが、通常のサーバ上であればデータの配布者に対して配信停止を勧告すればよい一方、Torrent経由でこのドキュメントを配布・拡散しているのは不特定多数の人たちなので、すべての者を取り締まるのは現実的でないからです。

このように地下出版やアングラとの精神的な近さを持つ『3D加算主義レシピ集』は、1970年代の『アナーキスト・クックブック』(ドラッグや爆弾の製造法を載せるDIYレシピ集)が3Dプリント技術を伴って、インターネット時代にアップデートされた実践とも言えそうです。実際、マニフェストの参考文献に『アナーキスト・クックブック』が挙げられてもいますし。

瀬下:サイバー・リバタリアンや『アナーキスト・クックブック』については、木澤佐登志さんの『ダークウェブ・アンダーグラウンド』内でも言及がありましたね。

太田:いやほんと、まさに「WEBは死んでも、インターネットは死なない」(by木澤佐登志)ですよ! 加算主義者もこの一文に同意するはずです。

瀬下:加算主義の運動としての背景や規模感はどんな感じなんですか?

太田:背景はものすごくオーヴァーグラウンドといいますか、すごく大規模かつ大舞台で生まれたプロジェクトですよ。というのも、『レシピ集』は、テックとアートの芸術祭「トランスメディアーレ」(ベルリン)の一環で制作されたんです。この芸術祭はアート&デザインの国際的な大舞台です。そのなかのアーティスト・イン・レジデンスのリサーチ・プログラムに、アラヤリとロークの二人は参加しました。そして成果物の『レシピ集』は、世界中の100人以上(!)のアーティストと連携し、100個以上(!)の事例/テキストを集めたものになりました。

瀬下:ほへー、グローバルな芸術・文化運動って雰囲気がありますね。

3.拡張されたデザイナーの職能とそれへの批判──「未来」を巡って

太田:いまやアート&デザインとテック業界は、〝一大未来産業〟の観を呈していますね。一方で現場においては、デザイナーがプロセスを主導して未来洞察のワークショップを開いたり、未来学者に知見をもらったり、先端技術の研究者を招いたり、さらにはSF作家をプロジェクトに巻き込む事例まであったりします。

他方でアカデミア──デザインリサーチや情報技術の学会においては、上記の方法論を開発・洗練する議論がいくつもされています。いずれ本マガジンでも特集しますから、今回は名前だけ出すけれど、「サイエンス・フィクション・プロトタイピング」「デザイン・フィクション」「スペキュラティヴ・デザイン」「コレクティブ・ドリーミング」……など、いずれも〝オルタナティブな未来〟を作り出すための方法論です(下の図は、デザインリサーチ界隈でしばしば参照される図で、複数種の未来を分類したもの)。

瀬下:4月号で見たデザインリサーチの事例でも、「ユーザー」としての高齢者・若者が感じている将来への不安や、人々の合意形成にまつわる困難な課題など、未来をつくるためにどうすればいいか考えているデザインが多かったですよね。

ただ、ぼくは違いの方が気になります。単純に話題にのぼっているプロジェクト群は、前回より派手なものが多いなと。プロジェクトをやるための予算も、デザインリサーチでは国や自治体が出しているものが多かったけど、今回のものはグローバル企業が出しているものが目立つ。良くも悪くも、みんなオルタナティブな未来を熱烈に求めている状況なのかな。大学も、アートも、グローバル企業も。

太田:未来の過剰、ですよねえ。人新世について考えるデザイナーの未来像は良くも悪くも巨大で、ビッグ・ピクチャーです。テックやデザインによって社会が一変するみたいな技術決定論は根強い。ぼく自身もそうしたデザインに取り組んでいる立場ではあるのですが、未来への過剰な期待は少し気になっています。

この論点においては、人新世の枠内では左派として紹介されるリー・エーデルマンの「再生産的未来主義」(reproductive futurism)に関する議論が参考になりそうです。本来はクィア・スタディーズやフェミニズム理論の文脈にいる研究者ですが、彼が問題視するのは次のようなことです。未来を構想する政治的な営み──人新世下の環境問題などは特に──には、おしなべて「次世代=子どものために」というエクスキューズがつきまとう。そこでは〈子ども〉という形象が前提になっている。だとしたら同様に、そこでは異性愛の規範が前提になって(しまって)いる。こうした「再生産的未来主義」をエーデルマンは批判するのです。

「クィアネスは対立的な政治的アイデンティティの主張や物象化にあるのではなく、政治への対立にあり、シニフィアンへの私たちの構成的な服従によって排除された想像的なアイデンティティをつねに無限である未来に向かって実現しようとする幻想としての政治への対立にあるのだ」(リー・エーデルマン「未来は子ども騙し──クィア理論、非同一化、そして死の欲動」、藤高和輝訳、『思想』、岩波書店、2019年、117頁)

瀬下:このメディアも「オルタナティブ」を標榜していますが、「未来の過剰」をどう捉えるかは今後テーマになってきそうだね。

(後編に続く)

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