悪い人
昼間から酒場が平気で繁盛している千鳥足以外の歩行は認められないような歓楽街を歩いていたとき、異国の女性が不慣れな日本語で携帯電話の向こう側にいる相手を罵っているのが耳に入ってきました。
「アナタ、ヨイヒトジャナイヨ、ワルイヒトヨ!」
その言葉が脳を何周か旋回し、その相手はどれほど悪い人なのかな、悪い人って直接言われる悪い人はどんな悪い風体なのかな、プロレスにおいての悪い人=ヒールという図式は現代もまだ存続しているのかな、…と考えていました。
“ヒールこそ実は良い人説”は昭和の時代から謳われていますが、令和の新日本プロレスでそれに該当するのが“キング・オブ・ダークネス”ことEVILであることは誰もが納得することでしょう。
コロナの影響で3ヶ月間興行が開催できず、ようやく無観客ながら大会が再開された直後のニュージャパンカップ(NJC)、そこで突然起こったEVILのL.I.Jの裏切りと極悪軍団HOUSE OF TORTURE(H.O.T)の結成。その勢いでNJC優勝、そしてその翌月には当時の王者である内藤哲也からIWGP二冠奪取。混乱と破壊、そして新日本マットを暗闇の世界に陥れるため、反則・介入・奇襲・暗転、勝利のためには悪行三昧。二冠陥落後も各タイトル戦線に喰い込み、一気に主軸へ躍り出る見事なステップアップ。
ただ、大問題が。
そこにはヒールにとっての歓声であるブーイングがありませんでした。声を出せない状況下で誕生した過去にない形のヒールでした。
ヒールにとって罵声はエネルギー。観客から怒りを引き出すのが役割。それが伝わってこない。観客も伝えられない。お互いがもどかしい。出来ることはこれまでの自分の経験を信じてこのヒールスタイルを貫き通すこと。
あのとき覚悟を決めたEVILはこの転機を活かし立派なプロレスラーになっていました。
ですが、勢いというのは衰えるもの。徐々にスポットライトを浴びる機会も減っていきました。でも大丈夫、ブーイングが出せる環境になったらそれをエネルギーに変え、またうーんと悪いことをしてファンの怒りに火を点けてくれる。と思っていました。
そして、それから約3年。規制も緩和された会場では声援が出せるようになり、今ではコロナ禍前とほぼ同じ環境に戻ってきました。ブーイングも聞こえるようになりました。
ただ、結成から約3年経ったH.O.Tの勢いは戻っていませんでした。
それは、声援を出せるようになった解放感が呼び込むヒールの悪行をエンタメとして楽しむ意味が含まれたブーイングで、心の底から湧き出る本気の罵声や「帰れ」コールとは質が異なるものでした。
歓声が戻ってきたときにお客さんはEVIL率いるH.O.Tへの憎悪、これまで溜め込んだ鬱憤、そして過去にない状況の中でスタートした悪党へ賛辞も込めて本気のブーイングを浴びせてやりたかった。が、見慣れてしまった悪行にそれを出せなかったのです。
そのタイミングを逃してしまった現在、ビッグマッチのメイン級でタイトル戦が組まれることも、反則や介入で勝利し観客の非難を浴びることも少なくなり、勧善懲悪の「悪」を担うズッコケ4人組と化してしまいました。
ちょっと待ってください。彼らはこのまま放置して良いのでしょうか。
それはあまりに不遇過ぎます。EVILはコロナ禍においての新日本プロレスを暗闇から支えた功労者です。来月からお前はヒールね、と言われて観客からの反応が掴めない状態でここまでやり切れたのはプロレスラーとして素晴らしいです。この大仕事を担ったのも、選手として評価されているからなのか、良い人なあまり会社にうまいこと使われているのか。そういう穿った考えをしたくもないのです。
おそらく今後、敵対し因縁を生み出しやすい言うなれば便利なその立ち位置から、ユニットとしての活躍の場はあるでしょう。ただ、EVIL選手個人としてこのまま埋もれてしまうのは残念だし、現代では定着が難しい典型的なヒール稼業を担った以上、試合結果や王座戴冠実だけでなくその“実績”を残してあげたいのです。要は、憎しみしかない罵声とブーイングを浴びてほしいのです。浴びせたいのです。
他の選手の大事な試合に乱入してのぶち壊しとか、他団体で悪行の限りを尽くすとか、何の脈絡もなく対戦相手の髪を切るとか。模倣でも良いので過去にない憎々しさを作ってほしいのです。そうなれば無歓声で生まれたヒールがようやく報われます。
面白キャラ担当になるにはまだまだ早過ぎます。だって、観客から本気のブーイングを浴びてないですよ。今の時代、徹底したヒール像を貫いて表現できるリングは新日本だけだと思いますし、それに一番近いところにいるのはEVILしかないと信じていますから。
「よく覚えとけ!」を試合後の締め台詞にしているEVIL選手、我々もあのとき本気で「また反則、また介入かよ!ふざけんなよ!」と声を出せずに興奮していたこと、よく覚えてますからね。あなた、良い人じゃないよ、悪い人よ!
確かに勧善懲悪は見ていて気持ちが良いけど、プロレスって絶対に続きがあるから、安心して混乱と破壊に満ちた暗闇の世界を見せつけてもらいたいものです。
気付けばさっきまで電話口で相手を罵っていたその異国の女性は、鬱憤が晴れたのか笑顔でお喋りしていました。
~おしまい~