見出し画像

責任って何だろう2

こんにちは、丹野です。8/19付の日経新聞で「プライム「女性役員ゼロ」なお69社 前年度からは半減」という記事が出ました。女性役員ゼロ企業がプライム上場企業の中でまだ69社もあるんですね。記事の中でも触れている、いわゆる女性版骨太の方針ですが、2024年版(2024年6月11日)の冒頭で、次のように書かれています。

政府としては、昨年6月の「女性活躍・男女共同参画の重点方針 2023(女性版骨太の方 針 2023)」(令和5年6月 13 日すべての女性が輝く社会づくり本部・男女共同参画推進本 部決定)において、プライム市場上場企業を対象として、「2030 年までに、女性役員の比率 を 30%以上とすることを目指す」、「2025 年を目途に、女性役員を1名以上選任するよう努 める」などの目標を掲げ、また、その中間的な目標として、昨年 12 月に「第5次男女共同 参画基本計画」(令和2年 12 月 25 日閣議決定。以下「5次計画」という。)における 2025 年までの新しい成果目標として、「東証プライム市場上場企業役員に占める女性の割合」を 19%とすること等を決定したところである。これらの目標に向けた取組等を通じて、女性 活躍の機運は着実に高まっているところではあるが、女性の登用が進んでいる企業とそう でない企業があり、進捗には差異が見られるのが現状である。

女性版骨太の方針 2024
https://www.gender.go.jp/policy/sokushin/pdf/sokushin/jyuten2024_honbun.pdf

”差異が見られる”というよりも”進んでいない”という表現の方が、個人的には適切のように感じます。

”能力が足りない”、”任せられる人がいない”、”女性ばかり下駄を履かせることが男尊女卑だ”、という声はよく聞きます。しかし、育成等を通じて役員や管理職を任せられる女性を増やすことは、経営者や上司の責任だと思うのですが、みなさんはどのように思いますか。さらに言えば、本当は役員や管理職を任せられる女性はすでにいるにもかかわらず、”既存の評価方法や評価者視点で任せられない”と決めつけられてしまっている女性も少なからずいると思います。

少し視野を広げてみると、何か物事を決めるときには何らかの責任を誰かが必ず負います。この責任について、従来の日本的文化に根ざした捉え方をしている人も多く現在社会に合っていないのではないかと、最近、考えるようになりました。

最近、内閣総理大臣である岸田氏が、次の自民党総裁選に出馬しないとの報道がありました。岸田氏は出馬しない理由の中で、次の文言を述べています。

残されたのは自民党トップとしての責任です。もとより、所属議員が起こした重大な事態について、組織の長として責任を取ることにいささかの躊躇(ちゅうちょ)もありません。今回の事案が発生した当初から思い定め、心に期してきたところであり、当面の外交日程にひと区切りがついたこの時点で、私が身を引くことでけじめをつけ、総裁選に向かっていきたいと考えています。

Yahooニュース「政治とカネ…組織の長として責任を取ることにいささかの躊躇もありません」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4a0a6b94428ac476cded3bb4ac2922e39a3abf4

責任の区分

法哲学者のハート氏によれば、責任は4つに分類されます。

  1. 役割責任:社会的職位や立場結びついている義務を果たす責任

  2. 能力責任:自身の行動に対する法制度や道徳の要求事項(責任)を理解する能力

  3. 因果責任:自身の行動結果に対する責任

  4. 負担責任:自身の行動結果に対して刑罰や賠償義務、避難を負う責任

現代の言い方変えると1と2は「遂行責任(Responsibility)」、3は「説明責任(Accountability)」、4は「賠償責任(Liability)」でしょうか。ビジネス領域において(だけでもないですが)、”責任を取る/責任を負う/責任を感じる”という言い方でまとめられてしまい、何の責任なのかあいまいなまま時間による解決を待つことが多いように感じます。

日本の文化的特性

国際的な文化研究で有名なホフステード氏は、日本の文化的特性について「高い不確実性回避傾向」を指摘しています。これは将来どうなるかわからない状況を不安に感じて、この不安を回避する傾向の度合いです。日本が他国に比べてルールを遵守する傾向が強いのもこの文化特性が背景にあると思われます。また、「菊と刀」で有名なベネディクト氏は日本を「恥の文化」、欧米を「罪の文化」と大きな二元論で文化的特性を整理しています。二元論でとてもわかりやすいのですが、少し大雑把な気もします。実際、ベネディクトの主張に対して反論が出ていますが、とりわけ作田氏の「恥の文化再考」では、罪を内面的、恥を外面的と整理した上で3つ目の要素として「羞恥」をあげています。ポイントは恥と羞恥を分けている点です。

「羞恥」とはまさに「恥ずかしい思い」であり、他者から注視されるときの状況が自分が思っていた状況と異なる場合に生ずるとしています。例えば、みんな知っているのに自分だけ知らない、といった赤っ恥なんかが当てはまるでしょうか。

ここでの「恥」と「羞恥」を英訳すると、恥=Shame、羞恥=Embarrassmentとなるようです。ShameもEmbarrassmentもかなり近い意味のように思いますが、Shameは道徳観や罪悪感からくる恥、Embarrassmentは人前で失敗したときの恥ずかしさで使い分けられるようです。このあたりの情報の正確性はわからず、間違っていたらすみません。

日本において責任があいまいになる理由

作田の主張は、罪も恥も同じ事象から生まれており方向性が異なるという理解ができます。一方、「羞恥」は別の軸になります。山本の「空気の研究」によれば、”臨在感的把握”という、ある対象に対する感情移入の絶対化が空気による場の支配を生み出します。この感情移入の絶対化はまさに自他未分を作り出すプロセスとも言えるでしょう。先日のコラムで紹介した「境界線があいまいな場」を好むことが日本の文化的特性の1つとするなら、「羞恥」は日本人にとって大きな要素になります。集団が自他未分の状態になることで「(場の)空気」が絶対的な力を持つようになり、結果、誰も自ら責任を負うことができなくなるという構造が作り上げられるのではないでしょうか。

つまり、「責任ある職務=責任を負うことで、将来の不確実性が増し不安になる」「失敗することで恥ずかしい思いをしたくない」ことが、集団において”場を支配する空気を作り出し、責任の所在を曖昧にする”、個人において”責任ある職務を受け付けない”ということが起こっている気がしてなりません。集団においてはその後、組織内のパワーバランスによって上位の面子を保つことが空気によって支配されます。個人においては最近流行りの静かなる退職が当てはまるかもしれません(これはあくまで私の勝手な妄想です)。

「そもそも責任ある職務を遂行した結果、目的と合致しないことがなぜ失敗となるのか?」という問いが生まれますが、この問いを立てられない状態にあることが問題なのかもしれませんね。

いいなと思ったら応援しよう!