友だち (短編小説)
かじかんだ手をゆっくりと焚き火にかざして、大男は「ふぅぅぅ…」と長いため息をついた。もう夕方になってしまった。夜になるにつれて、森のなかの気温はぐんぐん下がっていった。火の番をしながら、きょうはもうここで夜を過ごさねばならないと思うと、恐ろしかった。
「まったく。森に迷うなんてついてないよ」と心のなかでつぶやくが、返事をする者はもちろんいなかった。焚き火がパチパチ鳴いていた。
彼はまだ明るかったうちに拾っておいた枯れ葉や小枝を焚き火のなかに放り込んで、火が消えないように注意していた。おそらく火が消えちまったら、夜の寒さに死んじまうだろうと思った。ポケットのなかのマッチはもうなかった。火を起こすのに、十本あったところ全て擦っちまったから。
だんだん夜になってきた。焚き火の周囲以外は、夜空の星を除いて、真っ暗くなっていく。夜露も降りてきて、いよいよ彼の着物もじわりと湿ってきた。
舌打ちをした。
「ち!」
パチン!返事をするように薪がはじけた。
森は闇になってしまった。誰もいない。羽虫の羽音がうるさい。
途端に心細くなってくる。森に入った後悔の念が胸に込み上げてきたが、
「はて。そもそもなぜ俺は森に入ったんだっけ?」大男はなぜ自分が森にいるのかさっぱり忘れてしまっていることに気づいた。「そもそも俺はいつから森にいるんだっけ?」と考えはじめてみたが、突然、羽音が大きくなったから、腕を振って虫どもを追い払おうとした。考えがまとまらなくなって、焚き火に目をうつす。(火が消えないようにしなければ…)その想いは現実的に今しなければならないことだった。いつからどういうわけで森に入ったのか、そんなことを考えたからと言って、状況が好転するわけでもない。
まずは火を消さないようにするのが先だった。
闇のなかでは焚き火だけが頼りなのだから。じーっと火に見入っていると、まるで自分が蛾にでもなって、この火のなかに、その身を突っ込んでみたくなる、おかしな妄想だったが、それほどに暗闇の中の光というのは、魅惑的なものなのだ。
大男はそのとき友だちの顔を思い出した。友だちはうつくしい、ビードロのつやの、長髪の髪の毛に、やさしい目をしていて、身体は半透明で、銀の薄びかりに全身おおわれていた。
友だちは「だいじょうぶだよ。心配しなさんな。あんたはもうすぐでられるから」とたしかに大男に言ったことがあった。友だちは大男に大丈夫だと言ったのだ。大男はそれを思い出した。
しかし、じゃあ、友だちはどこにいるんだろう?もう一度友だちに会いたいと思った。
「おおい!おおい!俺は!ここだ!」大男は大声で叫んでみた。しかし、山のおくに響くだけで、その声はどうやら友だちに届かなかったみたいだ。悔しくなって、ちくしょうちくしょうとつぶやいた。
友だちなんて、いやしないじゃないか。
そもそも俺は本当に友だちに会ったことがあるのか。
疑いの想いが湧いてきて、なぜだかわからないが、無性に腹が立って、その場で立ち上がって、地団駄を踏んだ。くそぉ!くそぉ!と足をバタバタさせた。
焚き火はパチパチにやりと笑った。
「うるさい!だまれ!」大男は、焚き火に言った。羽虫も黙って、焚き火もだまって、世界は一直線の沈黙になった。
音がないと、耳鳴りが聞こえてきて、じぃぃぃという低く唸るような、耐えがたい音が、男の耳に鳴っていた。世界の沈黙さえも、自身の耳鳴りで、消えていく。その耳鳴りは、こころの耳鳴りだったから、彼のこころが静かにならないと、静かにならないものだった。
「ああ友だちよ。友だちよ。夜はおそろしい。あなたはどこにいるんですか?」と大男はたまらなくなって泣き出した。
するととつぜん嵐が吹いて雨風が大男を襲った。ごおぉ、ごおぉと吹く風は、森の木々をお辞儀させて、大男の焚き火を消し去ってしまった。暗雲が星の光を一つ残らず消してしまった。
そして、大男は、暗闇と嵐のなかに、残されてしまった。身体中に、冷たい雨が打ちつけて、逃げ場のない暗闇でもがきながら、走りだしてしまった。
「助けて!助けて!」大男は、ただ助けを呼ぶことしかできなかった。狂ったように走ったから、草や枝で、身体をたくさん切りつけてしまった。
「友だち!どこにいるの!ぼくの友だち!」彼は子どものようになって、ひたすら暗闇のなかで泣いていた。狂ったように泣いていた。
やがて石につまづいて頭から地面に転んでしまった。もう立ち上がる気力もなかった。夜の森はおそろしい声をだして笑っている。男は小さくなって怯えて
「助けて!助けて!」と祈るように泣いていた。
男がもう観念して、死を覚悟したときだった。
目の前に光がひろがった。やさしい友だちが彼を救いにやってきたのだった。
友だちは男に手をさしのべた。男はその手をギュッと握って離さなかった。暗かった森は照らされて、ひとつの楽園になっていた。男はその手を離さなかった。