Fictional World, Functional Life _5 | 1/2
「じゃあ今度は別の仮定。今度は火事にしよう。
君はマンションの高層階に住んでいたね。下の階から、すでに火の手はもう君の部屋の手前まできてる。さあ君ならどうする?」
ささやかな解放感とともに出た問いは、先ほどと同質の漠然とした不確定性さがあったが、先にはなかった愉快さを感じるのは、自分の中で解がまとまりつつあるからだろう。
「なんか随分と楽しそうですね。」
どうやらその愉悦は、彼女をして随分と言わしめるほどには透けて見えていたらしい。知らずに口角が上がっていたようで、試みに表情を無表情に戻そうと、左手で口元に触れて頬をもみほぐすようにしてみるが、形状記憶合金のようにするりと指を抜けてもとの微笑の位置に戻っていく。
そんなぼくの愉快さとは対照的に、彼女は困った子供を見るような表情である。ぼくが自分の頬と戯れている間に、問いへの勘案を終えていたようだ。
「最も安全そうなルートから逃げます。」
彼女は迷いなく凛と答える。妥当で、合理的で、疑問の余地のない答えだが、それが故に、ぼくとしても答えを類推することはそう難しくない。
「君の部屋の直前まで火は来てる。
君の言う最も安全そうなルートとはどこなんだい?」
問いに対する処理能力のリソース分、脳内のメモリが空いているため、先ほどとは異なり意識の大半の注意力が会話へとが向いている。追加する前提条件もいくつか頭に浮かんでいる。彼女には悪いが、戯れにぼくの出した結論への礎になってもらおう。
「ベランダの非常ドアを破って…」
「下階からの火事だからね、下は火の海だ。下への階段は使えないかな。」
「じゃあロープか何かで下へ…」
「残念ながらロープは全て出払ってしまってる。」
「出払ってるって何ですか。じゃあカーテンを…」
「あー残念。今全ての部屋のカーテンは燃え尽きてしまったみたいだ。」
再び彼女が僕に対してじっとりとした目を向けてくる。だが先ほどまでの苛烈さはなく、どちらかというと諦めの要素が強いようだ。
いや、諦めではなく呆れだろうか。
「今度は随分と非現実的な前提条件を追加するんですね。楽しんでませんか?」
「そう見えるかい?」
問うては見たものの自覚はある。気になる子をからかってしまう小学生の楽しさみたいなものを感じると同時に、そんな幼稚な楽しさを小学生でもないのに感じていることに複雑な気持ちになる。
「だとしたら一か八か、出来るだけ柔らかそうなとこを狙って飛び降ります。」
「まぁそうなるよね。」
彼女はため息を吐きながら、これで満足でしょう?と言いたげに返答をした。
戯れとはいえ、彼女の問いに対する結論を捻じ曲げてしまったことに、少し咎める気持ちが湧いてくる。
「満足ですか?」
「達成感は別にないかな?」
ぼくの彼女に対する観測結果はおおよそ正確だったらしい。ただ、ぼくじゃなくても、というよりもぼくでなければ、こんな結果を観測する前に想定して回避する道を選ぶだろう。満足感は全くないとは言えなかったが、これ以上道を誤る前に、進行方向の転換を図るのが得策だろうと、愚策の限りを費やした後に結論づけた。
「それで、ここまで誘導して何が言いたかったんですか?」
こういう流れになった以上、ぼくの誘導に従う方が話が捻れないと判断したようで、不本意ながらもぼくの意見を聞き出そうとする彼女。
賢いという意味が、無駄なく経験から学習できるという意味であるなら、彼女の方がぼくなんかよりよほど賢明だ。
「うん。」
彼女の決意を無駄にしないよう、ぼくはぼくの意見を忌憚なく呈しようと思う。些か以上にマッチポンプであることに目を逸らしながら。
「そういえばさ、近代の火事の現場において、死因の1番目は有毒ガスでの中毒死なんだけど、2番目が何だかわかる?」
「転落死って言いたいんですか?」
さっきの流れから類推される解を、彼女は淀みなく答える。
「そう転落死。もちろんこれは高層階での火事に限った話ではあったのだけどね。」
現代においては、近代からの変革の副次的に、火事自体がほとんどなくなってしまった。高層マンションもそのほとんどが解体され、太陽光を高効率で変換できる希少なシリコンパネルを所持した、酔狂な富豪か一部の政府機関くらいしか上に多積化した建築物、いわゆる前時代の高層マンションはない。それ故、高層階の火事自体が問を掘り下げる仮定として適切ではない気がするが、一番に思いついたのだ。
彼女が住んでいた、怖いほどに見晴らしの良い高層マンションの一室を。
「高層階に取り残されたっていうのが一番の原因なんだけど、もう一つあって、火事で火の手が迫ってる中で地面との距離を見誤ることが多発していたらしいんだよ。これくらいならいけるって。」
古典となりかけた、歴史となりかけた景色。何でもないつまらない事象というのは訳もなく、意味もなく、気まぐれに記憶の片隅に居座っていつまでもその場所を占拠しているものだ。
「はぁ、それが自殺のメカニズムと先生はお考えですか?」
なんとなく感傷に片足を着いているぼくをよそに、彼女は呆けた声で聴いてくる。彼女の中で高層階の転落死と自殺とではどうもうまく結びつかないらしい。
「そうだね。彼らは消極的、消去法的ではあるけど結果としては自殺と同じものを得ている。」
ぼくは彼女に結論を促すように補足をする。
「つまり自殺と変わりがない。」
これがぼくにとっての最適解。
ぼくの中ではこれ以上明朗な解は他に導き出せなかった。しかし、彼女は反対に矛盾の波にのまれるように、深い思索と困惑を繰り返しながら、問い質すように言葉を発した。
「それはおかしくないですか?
生きるために飛び降りて、その結果死んだから自殺というのは流石に暴論でしょう?死にたくて死んだわけじゃないのに。」
「じゃあ君は自殺者は死にたくて死んだと言いたいのかな?」
彼女にしては珍しく、すぐに次ぐ言葉が出てこずにもどかしいといった様子だ。眉間に皺を寄せながらなんとか言葉をつなぐ。
「そう言われると肯定しづらいですけど…。
だけど、少なくとも死ぬために行動したのは、やっぱり先の例えとは違うでしょう?」
「でももしかしたら自殺した彼らだって生きるためにやった可能性は無いとはいえないでしょ?」
ぼく言に彼女は眉間の皺をさらに深める。
「生きるために自殺?
そんなことって…それはおかしくないですか?」
「うん、おかしいね。」
「馬鹿にしてます?」
彼女の普段の清流のような淀みなさはなりを潜め、いつになく思考が直情的で短絡的になっているのは、どう考えても混乱を誘ったぼくに責があるだろう。
いや、思い出さないようにしているだけで、彼女は案外いつもこうだったかもしれない。ぼくは彼女の普段の静粛とした雰囲気に入ったヒビから、仮面に守られた、ぼくが本当に彼女らしいと思う、彼女の見せたがらない幼さみたいなものが顔をのぞかせるのを面白がっていた気がする。
一瞬よぎった意味のないノスタルジーを振り払うように目をつむる。ただ、今回に関しては、いや今回に関しても、ぼくには彼女を謀る嗜虐心も悪戯心もない。ぼくはぼくの出した結論をただただあり得る一つの仮説として検証に値すると、彼女を見る目とは真逆の、冷たい目で見つめているだけなのだ。
「馬鹿になんてしてないよ。」
一呼吸おいて、少しだけ乾いた気がした口をゆっくり開く。
「ただ僕が言いたいのは、何のためになんてことは他の人からはわからないということだよ。つまり…」
ゆっくりと目を開く。そこには彩度のない景色がただ広がっているだけだが、それ以上の何かを、すべてを貫く一点の真実を、たくさんの疑いをもって傷つけられて初めて証明される何かを、見つめるように、見つけるように、虚空に向けて目を開く。
ぼくは、言葉の矛先を自分に向けて、その真偽を確かめるように投げかけた。
「それらは定量できないんだ。」