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【苦しみと悲しみから見える真理のこと】

正直に告白すると、家族とは絶縁・離別・死別しているので、自分は天涯孤独の身です。

自分にとっては、「家族のために頑張る」というモチベーションで働く人は宇宙人ですし、休日のショッピングモールを一人で歩くのは拷問と呼ぶに相応しい行為です。

仲間や友達はたくさんいますが(しかも皆本当に良い人で)、「家族」と呼べる人、心の本当の本当の深い部分のところをさらけ出せる人がいないという、言いようのない孤独と深い悲しみ故に、心の中で毎日半狂乱してます。

それを人前では絶対に出さないというあたりに、自分の心の闇の深さと狂気を感じます。

たまに仙台に来ると(「帰ってくる」という言葉はもう使えませんし、絶対に使いません)、失ってしまったものの大きさを思い知らされて、涙が止まらなくなることがあります。

ここにはもう自分の居場所はないのだと。

事業の失敗で負った傷がデカすぎて、起業したことを後悔することもかなりの頻度であります。迷惑をかけた人にお詫びして、その結果、殺意に満ちた恨み言を言われたりと、自分の無力さと無能さ、愚かさに打ちのめされる日々が未だに続いています。

院内・湯沢に移住して、周りの人には本当に、本当によくしてもらっていますし、仕事や地域活動にも手応えを感じています。しかし、移住する過程で失ったものがないかというとそれは嘘になります。

自分は、誰も恨んでいません。
憎しみが何も実らせないことを知っているからです。強いて言うなら、心の中にあるのはどうしようもない虚無感です。心にぽっかりと穴が空いて、その穴をどう埋めたらいいのかが分からず、日々苦悩しているのです。

そこで神に祈ります。
しかし、神は答えてくれません。
今の自分には、神を人格的な存在として感じられません。

逆説的ですが、だからこそ、詩篇にあるダビデの告白を、いくばくか自分自身の心の叫びとして、そのまま捉えることができるという側面もあり、そのことについては本当に感謝しています。

詩篇13篇にはこうあります。

主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。

いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。

私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。
(詩篇13:1-3)

皮肉なことに、たくさん悲しいところを通って、この領域のことがわかるようになりました。

「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)

この言葉は本当に真実だと思います。

さらにこうあります。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(Ⅱコリント1:4-5)

そこから導き出される結論は以下の通りです。

今日も、明日も、明後日も、自分は誰かのために微笑むことを辞めないということです。悲しみの淵から手繰り寄せた微笑みに力があることを知っているからです。

人間、どうしようもなく悲しくなると優しくなります。
慈愛というものはこうして身についていくのかもしれません。

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