【書評】『遅刻してくれて、ありがとう(下) 常識が通じない時代の生き方』 トーマス・フリードマン(著) 伏見威蕃(訳)
素晴らしい読書体験であった。
世界を動かしている大きな力の正体は何なのか?
その大きな力に僕らはどのような影響を受けているのか?
そして、僕らはこれから何を大切にして生きれば良いのか?
スマホを置いて、一度立ち止まって考える時に来ている。自分が知る限り、本書はそのための最も優れた指南書である。
常識が通じない世界
僕らはテクノロジー、グローバリゼーション、気候変動がかつてないスピードで進む超加速の時代に生きている。
テクノロジーの留まることのない進歩は、産業や暮らしのあり方を大きく変えた。グローバルなプラットフォームは、個人がアイデアを出し、資金を調達し、実現し、規模を拡大することを容易にした。スマホからワンタッチで複雑な操作をいとも簡単に行うことができるし、地球の反対側にいる友人とリアルタイムで感情を共有することだってできる。
確かに、世界は緊密化したし、フラット化した。
創造的に何かを仕掛ける人間にとってこれほどチャンスに溢れた時代はない。だが、世界中の大多数が実感しているように、僕らが生きているのは楽園のような世界ではない。
テクノロジーの進歩は労働市場の急激な変極端な収入格差をもたらしたし、大国は巨額の財政赤字や極度の低金利に苦しんでいる。
地政学に目を向ければ、冷戦時代に超大国から資源を注ぎ込まれることで何とかやってこれた国々は「無秩序の世界」に陥り、これまでに政治的平穏を享受してきた大国に牙を剥いている。
無秩序の世界に渦巻く憎悪と屈辱は、ソーシャルメディアによって増幅・拡散され、世界を恐怖に陥れている。そして、アフリカや中東を襲う気候変動が、難民問題やテロリズムを容赦なく加速させる。
僕らはこれまでの常識が通じない世界において、何を想い、何を大事にして生きれば良いのか?
健全なコミュニティからのソーシャル・イノベーション
この常識が通じない世界で、筆者のフリードマン氏が大事にするべきとしているのが「健全なコミュニティ」である。その原型を、故郷である1960年代のミネソタのセントルイスパークに見出している。
健全なコミュニティが、超加速の時代に抗するもっとも有効な緩衝材(=社会システム)になり得るというのだ。
健全なコミュニティとは、一言で言えば、信頼をベースとした、多元的共存が実現されている社会である。
それは、全ての人種や宗教、障害者や高齢者を受け入れる社会であるとともに、経済的な繁栄を分かち合う感覚を有している。またそれは、その土地の個性を絶えず強化しようとする。気候、地形、大学、海岸線、港、多様性、熟練の職人、芸術・文化……そのうえで、テクノロジーとグローバリゼーションを利用し、それらの資産をもとに地元産業、製造業、熟練職人の技術を確立して育てている。そこでは、公共スペースが多様な属性に開かれており、貧困層であっても、様々な学びや活動に参加することができる。政治においては、議会への信頼が高く、地方自治組織との連係も十分になされている。構成員の当事者意識も高い。
当時のミネソタでは、クリスマスとは無縁のユダヤ教徒の子どもが『聖夜』を学校で歌う。キリスト教徒の子どもがユダヤ教の『宮清めの歌』を歌うという光景も見られたらしい。今でも、人口47,000人のセントルイスパークでは多様な人種や宗教が分け隔てられることなく暮らし、豊かなコミュニティを形成しているようだ。
宗教の違いは言い訳にならないことを僕らは肝に銘じておくべきだ。
アメリカには、そのような健全な町、都市、コミュニティが多数存在しており、それらのコミュニティの概念を地球全体に拡大させることが、超加速の時代を生き抜く鍵であるという。
問われる「日本」の地域社会
直球な愛国心やミネソタ愛を理解するのはなかなかに難しいが、フリードマン氏の主張に僕は強く同意する。むしろ「地域コミュニティに根差して生きる」という僕の決断・価値観・生き方を承認してもらっているような感覚だ。
健全なコミュニティが21世紀の統治の鍵であると言うなら、日本にもその萌芽とポテンシャルが見られることは見逃せない。アメリカと同じように、トップダウンからではなく、逆立ちして見れば良質な地域コミュニティというものは確かに存在しているし、そんなコミュニティを形成するために奮闘している魅力的な人達を僕はたくさん知っている。
東日本大震災を経験した東北沿岸部の各地域は、甚大な被害を代償に確かなレジリエンスと推進力を備え始めている(復興がなされたと見做すのは早々であるが)。他の地域もそれらの地域に倣い、健全なコミュニティ形成に向けた様々な取り組みを推進している。
奇しくも、僕が地域づくりに取り組んでいる秋田県湯沢市は、セントルイスパークと同じ約47,000人の規模の町だ。僕は、この町で「半分ヨソモノ=アウトサイダー」という絶妙なポジションで、行政職員や地方議員、民間プレイヤーと連携しながら協働の町づくりを推進している。
確かに、少子高齢化に産業の縮小、人口減少、逼迫する財政等、課題は山積しているが、決して、悪い方向に進んでいるとは思えない。市内に点在する小さなコミュニティの連帯も、テクノロジーの力を借りながら少しずつ強まっている。前進している手ごたえがないわけではない。
だが、「多元的共存」という観点に立ってみると、まだまだであると言わざるを得ない。日本の地域社会にはまだ閉鎖的で排他的な部分が多々残っている。島国であり、単一民族国家である日本では、これまで多元的共存というものが求められることはなかった。異文化や、異なる宗教、異なる価値観、異なる性的志向に対する柔軟性や適応力は未知数である。
だが、今後オリンピックや外国人労働者の受け入れの議論等とともに、地域社会においても異なる人種・思想・宗教と接する機会はますます増えてくるであろう。その時に、我々はどのように対応するのであろうか。
他者から謙虚に学び続け、適応という忙しい作業に勤しみ多様性を強めていくのか、はたまた排他性や閉鎖性を強めて多元的共存を実現する機会を失っていくのか。
今、日本の地域社会が問われている。
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