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自我をなくす方法
こんばんは。
サーバルポッドです。
みなさん自我はありますか。
大前提として、自我が強い弱いが良い悪いという尺度ではなく。
宗教とかで言われている「無我の境地」やドラゴンボール超/集英社で悟空が使う「身勝手の極意」(無意識にすべての攻撃を防御・回避する技)ってかっこよくない?という起点で話したいと思います。
無我の状態というと、何か目の瞳孔が開いて雰囲気がシャープになっていてすごい事ができそうなイメージですよね。
結論から言うと無我の状態になる方法は「対人(たいひと)を辞める」ことです。
人to人をやめるということです。
一般的には人権問題から始まり、「人とちゃんと向き合うことができる」「ひとりひとりと向き合ってくれる」などと対人とはポジティブなイメージで語られることが多いです。
ところがどすこい。
さあ無我の状態になろうと考えたときに、この対人(たいひと)をやってしまうと、対人と対(つい)になる人(自我)が絶対的に発生してしまいます。
相手を人として尊重しようとすると、反作用として自分も「こう思われたい」や「こう扱ってほしい」などの自我が現れます。
鏡のようなものだと思います。
自我というと少しネガティブなイメージですが、言い換えれば「自分の考えを持っている」「意思が強い」など決して悪いものではないです。
しかし、何か思い切った行動をとろうとするときは「自分」が失脚する(極論でいうと死ぬこと)を恐れて枷になることが多いです。
こんなときは「頭空っぽの方が夢詰め込める」マインドが生きてきます。
ちなみに社会の仕組みをつくっている側の人達からすると、多くの人には対人(たいひと)でいて欲しいようです。
神様はたいてい人の形をしています。
また、最近定着してきた推し活もアイドルなどの人や、Vtuberモデルなども人型であることが多いです。
大昔からある結婚や恋愛という制度も人対人、それも一対一を絶対とした制度です。
法律というのは社会を形成する主な仕切り板ですが、憲法でも人権を強く推し出しています。
義務教育でやらせることも、個人の成績が他人と比較してどうかと、学年やクラスやグループなどの、人の集合体のどこに所属しているかを認識させているわけです。
なんか陰謀論者っぽくなってきたのでこの辺にしておきます。
こんな感じで社会全体としては対人(たいひと)に意識を持っていくコンテンツで溢れかえっています。
個人や個人の集合体であるグループを意識させた方が、競争意識を煽って購買意識や消費を向上させたりできるので当然といえば当然ですが。
話を切り替えます。
そしたら対何を意識すればいいの?というところかと思いますが、対コンテンツが落としどころかと思います。
例えば、芸術に関していて言うと、よくあるのが「自分の作品を通して人々に何かを伝えたい。」という考えですが、ここには自分と人々という人to人が発生しています。
ここで、「人に何かを伝えたい」ではなく芸術コンテンツに自分のコードを繋ぎエネルギーを流すだけにします。
対人(たいひと)から対コンテンツに切り替えることによって、自分や自我というものが薄くなっていくわけです。
このやり方のいいところは自分の意識が変わるだけで、他人からみるとただ作品をつくって発表しているだけなので、スピっぽいことをしているわりには「何か変な人」と思われることがまったくありません。
それに、創作活動に限って言えば自我が無い方がなんかいい作品を作れる気がしませんか?
以上、自我をなくす方法でした。
気になった方はやってみてください。