チェンソーマンから読み解く「恐怖」の正体
※ネタバレ注意※
チェンソーマン/集英社のネタバレを含みます。ご注意ください。
こんばんは。
チェンソーマン/集英社は読んでますでしょうか。
今はジャンプ+で第二部が連載していると思います。
作者の藤本タツキ先生は本当に鬼才という形容がしっくりくる人で、アイディアやキャラクターの個性が他に類をみない魅力があると思います。
ところで、この作品の根幹を担う「悪魔」という設定ですが、人間が総合的に大きな恐怖を感じている悪魔ほど強く、現世と地獄という二界があり、地獄で死ぬと現世に転生、現世で死ぬと地獄に転生をループするというものです。
悪魔は転生すると記憶がほぼリセットされて別個体になるそうです。
ここで、人間の感じる「恐怖」。
これは、現実世界の私達にも直結する話で、作中に出てくる「銃の悪魔」、「支配の悪魔」や「永遠の悪魔」など確かに恐いかもしれないと、感覚的にしっくりくるものが多いと思います。
本記事ではこの「恐怖」の根源について掘り下げていきたいのですが、筆者の認識では根源的な恐怖は「死と孤独の恐怖」です。
孤独というのは、社会的に他人から完全に切り離された状態で、一番大きなくくりでは「人間」というグループには最低限全員属している訳ですが、ここからもはみ出てしまうことに対する恐怖です。
そこまでいかなくても、社会的に人とのつながりを間接的なものも含めて全て断った状態は「死」に直結するので恐いのかなと思います。
これらから推測される事は、「恐怖」とは「未知」です。
「体験したことがないから恐い」ことが根幹にあるかと思います。
まあ、注射とか歯医者とか絶叫マシンとか体験したことがあっても恐いものはあるかもですが。
人間はほぼ全員が「死」への恐怖心があると思いますが、これは「死を体験したことがないから」ないし「死を体験したことがある人からの情報がないから」だと考えられます。
作中で「未来の悪魔」が出てきますが、これもまだ体験していない時系列に対して恐怖心を覚えているわけです。
ただし、「死」は誰も体験したことのないブラックボックスではあるのですが、「死」自体は人間がつくりだした概念ではあります。
もしかしたら人間は死んだ瞬間に別の人間に転生して、意識も記憶も引き継いでいる別の世界に飛ぶ可能性もなくはないわけです。
「死」という概念を人間がつくり、主に各宗教でそれを脚色して輪廻転生や六道や天国などの世界観を付与しています。
「未来の悪魔」のくだりで「ん?未来って恐いか?」と思った方もいるかもしれません。
確かに、未来に対して社会的地位や環境が現状維持ないし良くなっていく算段がある人は、「老い」を除けば未来に対して恐怖心はほぼ感じないかと思います。
別の例でいけば、何も情報がなく会ったことも無い人に初めて会うときに、恐怖心もしくは緊張感は感じる人が多いと思います。
これは、「会ったことがない(体験したことがない)」に加えて、「対象が敵か味方か会うまで判断できない」状態だからかと考えます。
人間の理性はつまるところ分別です。
是か非か、GOかSTOPか、リアクションかスルーか、そして敵か味方かなどの判断を下します。
上記の初対面の例でいけば、対象が現れることは決定しているなかで、それが敵か味方か判断がつかないとき、理性は判断して安心しようとしますが、どうしても会うまでは宙ぶらりんになってしまうので、この分別不能のエラー状態が恐怖心となって感覚に現れます。
「死」も同じです。
いつか直面することが決定している「死」に対して、敵か味方か判断したいのにまだできない。
生きてるうちは「死」を意識する度に分別不能のエラー状態になってしまいます。
「未来」に関していえば、恐くないという人は「未来」が「味方」であると、少なくとも自分の理性では判断しているので、恐怖心がないということになります。
もう少し引きでこの構図をみてみると、主に「未知」かつ「分別不能」のものに対して恐怖心を抱くわけですが、「死」をはじめとして人が作り出した概念に対して「分別不能」となっている場合が多いです。
そして概念は分別の上に成り立つので、これもやはり人間の理性が作り出したものです。
つまり、人間の理性が作り出したものに、人間の理性が恐怖心を感じている構図になります。
根源的な恐怖は「死と孤独」だと思いますが、そもそも恐怖心を生み出しているのは「理性」であり「分別」だと考えられます。
これは憶測を含みますが、理性主体で活動している人ほど恐怖心を感じやすいです。
理性主体ということは教義やルールに厳格ということでもあります。
恐怖心があることで、自分の身を守ることにもなるので決して悪いことではないですが、必要以上に恐怖心を感じながら生活するのも疲れるかもしれません。
反対に、「感性」主体で活動している人は恐怖心が薄いかもしれません。
極端な例は、ONE PIECE/集英社のモンキー・D・ルフィは考えずにすぐ喋り、行動すしますが、未知のものに対して恐怖心でなく好奇心を抱くタイプです。
少年漫画の主人公はこの感性主体のタイプが多い気がします。
こうなると理性が悪者のようにも感じますが、頭が良いこと自体はアドバンテージで、恐怖心を感じたとしても好奇心が上回り、未知のものにもチャレンジできるような状態であればいいのかと思います。
話をチェンソーマンに戻すと、悪魔の強さは総合的な人間の恐怖心の大きさで決まるので、作中でも言及されていますが「死」が完全なブラックボックスなので最強ですが、「人間」という概念の外側で完全な孤独状態になった人もいないと思うので「孤独」も強そうな気がします。
後は、「死」が恐い理由として意識の消失があるかと思いますが、これは所謂「無の恐怖」になると思うので「無」も強そうです。
作品本編、これからの展開が楽しみです。
以上です。