前歯を舌で押さない~貴方の歯は噛めていないと言われて100万円~
よい歯の維持のために、何より大切なのは歯並びだ。大切というか、コスパがいい。
わたしは25歳ごろに、歯列矯正を勧められ、100万円超の支払いと数年のワイヤー矯正生活をした。
ワイヤーをはずして、すでに10年ほどが経過した。就寝中のリテーナーの使用や日常生活でのちょっとした心がけが、完成した歯並びが大きく崩れるのを防いでくれている。
そのちょっとした心がけのひとつが、「前歯を舌で押さない」である。
ものを食べたり喋ったりしていないときの舌の待機位置をついつい上の前歯の裏にしてしまう人は今すぐやめるべきだ。
その習慣は少しずつ確実に、あなたの歯列を歪ませてしまう。
矯正のきっかけは、健診とクリーニングのためにたまたま行った歯医者の、ゴージャスなマダム歯科医の指摘であった。
クリニックの雰囲気もあいまって「自由診療ガチ勢やないかこれ」と身構えていたのだが、的を射た指摘と説明は、自分の歯並びに疑問を持ったことなど一度もなかったわたしに、矯正専門医のセカンドオピニオンを受ける予約をさせるに十分だった。
ゴージャスマダム先生の言は「あなた、噛めてない」
いや噛めてますが……? 口内の診察は終わっているのに、わたしの口がまた開いた。
わたしの前歯は「噛めていなかった」。
健康な歯並びであれば、奥歯をかみ合わせたとき、上の前歯が下の前歯にわずかに被さりながら重なる。
わたしの場合はここがかすりもせずに開いていた。つまり噛めていない。
ごく単純に言うと
歯列全体がおよそU字型に並んでいるところ、わたしの場合は上の歯列だけV字に近くなっていた。
Uの上にVを重ねたら、Vのとがった部分がはみ出すのは当然だ。
しかしとにかく、歯を見せて笑った写真程度ではわかりにくいものだった。
歯列が上下に離れているのであれば親なり祖父母なりが気づいたのだろうが、前後に離れていたために正面から見ただけではわからなかった。
本人を含め家族は皆「歯並びがきれいでよかった」と思い込み、矯正治療が必要であるなどと想像もしたことがなかった。
さて、自由診療ガチモードなクリニックでゴージャスな先生に、巷では非常にお高いと聞く歯列矯正を強くお勧めされたわたしはビビっていた。
「手間暇、あとお金かかりますよね・・・・・・?」
「あなたねぇ!」
ビビるわたしにゴージャス先生が重ねてくる。
「今始めたら30歳までに終わるのよ。
80歳まで生きるとして50年以上、自分の歯が一揃い使えるのよ。それに比べて、数年のなにが手間暇?
お金もね、インプラント治療なんかで将来20万30万使うよりずっといい。
だって自分の歯が残るんだから。
自分の歯一揃いはどんなにお金を積んでも買えないのよ」
あからさまに金持ちオーラを放つ人がいう「どんなにお金を積んでも買えない」にはとてつもない説得力があった。
どこの歯医者でもインプラント治療についてのお知らせは掲示されていて、それらはやはり一本25万円から~なのである。「から」と書いてあるからには最低価格で済むことは稀なのだろうし、仮に4本インプラント治療をやればそれだけで100万円以上が飛ぶ上に、自分の歯はなくなる。
一言断っておくと100万円は安い金額ではないが、ワイヤー歯列矯正の費用としては妥当、良心的なラインである。
安価で短期間でできる!目立たない!と謳っているものは、仕上がりもモチもそれなりであると聞いた。
結婚式のときだけ、若い時だけ、見た目だけきれいならそれでいい、という状況にはよいという。
そう、本来歯列矯正とは審美目的以上に機能面の改善という目的がある。
それは、わたしのような自覚的な困りごとはなかったのに「噛めていない」状況の改善を大いに含んでいる。
歯列全体をグイグイとダイナミックに動かすワイヤー矯正治療が始まり、最初に言われたことの一つが、「舌で前歯を押さないこと」だ。
その他同列で言われたのが、うつ伏せ寝、横向き寝、頬杖など、顔の外から歯列に重さや力をかける行動をやめること。
ワイヤーの力や方向を邪魔するような癖はすべてやめる必要があった。
無意識の噛みしめや就寝中の歯ぎしり癖もいけない。
ちなみに、食べ物を噛んでいないときに歯と歯が合わさっているだけで「噛みしめ」ていると扱われる。
矯正が完了して、すべてのワイヤーを外した後も同じである。
飲み食いおしゃべり以外で歯に余計な力をかけてはいけない。
飲み食いおしゃべりと普通の生活の中でゆがんでいく歯列は「個性」であるが、不必要な力をかけてゆがんだらそれは事故であり治療対象だ。
さて、歯列矯正を完成させて良かったことは数えきれないほどある。
顕著に感じるのは、頭痛の減少である。
歯を食いしばると筋力を発揮しやすいものだ。
体のバランス、使い方に影響する。たかが口の中のことではなく、体をコントロールする重要な「骨格」のひとつなのだろう。
心なしかバレエの重心も取りやすくなった気がする。
肩こりをはじめとする全身の緊張感も減った。
それからゴージャスマダム先生の説明にもあったのだが、正しい歯列を持っていると普通に食事をするだけで歯の表面の汚れは「落ちる」。
加えて、矯正前に比べて歯磨きが楽である。奥歯のほうにあった微妙な隙間がなくなったこともあるし、前歯の裏側に歯ブラシを入れる余裕が大きくなった。フロスが入れにくい場所もひとつもない。
この歯磨きと歯の隙間の件の改善によって、口臭が気になることもなくなった。
そしてやはり、審美面である。
幸運にもわたしはさほどルッキズムに苦しんだこともなく、一般人としての自分の顔は多感な年ごろですら気に入っていた部類である。
それでも明らかに、矯正前と矯正後では顔が違っていて、矯正後の顔のほうが美しいと感じる程度には輪郭が変化しているのだ。
整形しようかなと考えている人はその数十万をもう少し増やして歯列矯正にしなさいと強く訴えたい。少なくとも健康面のマイナスなしに、劇的な変化を得ることができる。あごの骨を削るとかいう前に、ぜひ。
矯正治療終了から10年近く経過したが、まだまだ整った歯列は維持されている。
当初の100万円を割ると月1万円を切ったことになる。(重ねて伝えるが、治療開始ではなく「終了」から10年である。)
頭痛や肩こりへ対処するためのマッサージや整体院に使ったとしたらこの月額で足りるだろうか。
ヘアサロンや、ちょっとした外食と比較したらどうだろう。
これはもうたいへんお安い買いものである。しかも虫歯や歯周病の治療が必要になる可能性もぐっと減っている。
ゴージャスマダム先生の言った「お金で買えない自分の歯」の価値は、私のような賃労働をする庶民に相当な価値をもたらしてくれた。
歯のために、自分の歯のために、整った歯列の獲得と維持をすべての人にお勧めしたい。
まずもって、前歯を舌で押さないことである。