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左翼の闇と修正主義

修正主義は右翼だけの持ち物だと思っていた。が、この記事を読んで恐ろしくなり、同時に色々なことが腑に落ちた。

これはカンボジアのポルポト政権とそれを支持し、虐殺を否定してきた西側知識人達の話だ。
急進左翼政権に夢を託すエリート知識人達が、それとかけ離れた現実を認めたくなくて、血生臭い粛正の事実を否定してきた。まさに修正主義じゃないか。

「西側のマルクス主義学者コールドウェル博士がポルポトのカンプチアを訪れた際、その演出されたわざとらしさに西洋の仲間とジョークを言った」と記事にあるが、自分の描いた理想像を実演した現場を見て、そのおかしさを仲間と笑い合うというのはどういう神経をしてるんだろうか、やばすぎる。
無責任甚だしい、サイコパスだ。
日本でも左翼の理想を語るのは大抵当事者ではなく裕福な知識階級だし、大学の教授陣は表向き左翼が多い。

私は今までの人生でそういった左翼的なものに惹かれて近づいていっては裏切られてきた。
「明るさ・優しさ・思いやり」を掲げる学校の先生に家庭内での暴力を訴えたら、親の側について「あなたの方が酷いことを言う」と責められたし、Twitterの「発達障害の個性を認めよう」という会の主催者と会ったら待ち合わせ時間に遅れただけで嫌な顔をされたし(ADHDは不注意で時間を守れないことが多い)、「社会派の左派」だとかいう大学のゼミ担当教授からは就活に向いてない性格として人格侮辱やアカハラを受けたし、フェミニズムグループの主催者からは宗教の良い面や無宗教の日本の闇について語ったら、酷い人格攻撃やスケープゴートの標的にされた。

彼らの掲げる理想が光り輝く白さを誇るのは、単に彼らがその黒い矛盾から目を背けているから、隠蔽するのが上手いからではないかと思えてくる。
左翼の方が絶対的で普遍的な正義を掲げる分、矛盾が起きた時に認められず、異分子の排除や隠蔽主義に至りやすいんじゃないか。
キリスト教は異端審問が激しく多神教ローマより不寛容だったと言うが、そのキリスト教を批判する現代左翼の不寛容さを見ると、私には両者の違いが分からない。
むしろ左翼的だった、正義を追い求めたからこその不寛容さだったんじゃないの?

実際ポルポトだけでなく、「ヒトラー 社会主義」で検索してみても全く否定する左翼論者の記事が散見される。
部分否定やそういう部分はあるかもしれないと内省する意見はほぼ無く、「そういう主張は極右主義者達の戯言だ」とか「全体主義は右翼だけの持ち物だ」とか、不自然な全否定と責任転嫁ばかりだ。ナチスはその名前に既に「社会主義」と刻まれているのに。
都合が悪い現実は認めないし、平気で歪曲する。

右翼ももちろん修正主義だけど、彼らの場合は最初から国や地域など、「自分達が守るのはここまで」と言明している(その範囲さえ守らない右翼も多いけれど)。
左翼の場合、区切りを付けず弱者をも受け入れると言いながら、実際には保守の人と変わらず不寛容で独善的、むしろ自覚が無い分たちが悪い。
弱者にはそこで救われなければ後がないのに、期待させるだけさせて突き落とす分、より罪深いとも言える。

こうなってくると「悪人正機」の思想も結構必要なんじゃないかと思えてくる。
私は日本の「最初から正義なんて無くて当たり前」という開き直りがものすごく嫌いだった。状況を改善しようとする努力をせず、抑圧的で当たり前、我慢して当たり前と、何もしないことを開き直るのだ。
しかし善意のつもりで自覚無く、他人を踏み潰していく人間の方がよっぽど怖いのかもしれない。

結局立場と不釣り合いな劣等感や欲求不満を持った、器の小さい高位者というのが一番厄介で暴力的なのだと思う。
ポルポトは地方のエリート階級出身だったが都合が悪いから、最後まで認めなかったそうだ。やはり認知の歪みがある。
左翼の場合上流階級にあることを認めることが出来ないから、同時に民への責任感も育たず、地に足のつかない頓珍漢な現実認識と政策が出来上がるのではないかと思う。

当事者の生の声を聞き、違う意見を持つ論者とも対話出来、口だけでなく有言実行しているかどうかが、左翼を見極める大事なポイントだと思う。
そして国の文化に精通して悪い部分についてもよく知っているという点で、悪い部分に正面から向き合える人であれば保守派の人でも票を入れるに値するのではないかと思う今日この頃だ。

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