自由な自己責任社会
「自由に囚われる」皮肉な表現だけど、的確かもしれない。
リベラル派は「誰もが完全に自由な」状態を目指して突き進んでいく。
だけど、人間生まれた時点で、親を選べないという最初にして最大の不平等が待っている。
「誰もが完全に自由な」状態なんて存在するんだろうか。
昔と比べたらどれだけ自由になっていたとしても、きっと「まだ足りないまだ足りない」と求め続ける無限ループに嵌ることだろう。
社会学には「相対的剥奪」という用語があって、昔なら当たり前だった我慢が、個人の自由が拡大したことで耐えられないと感じられるようになっていく現象を言う。
社会学の講義では保育園建設反対運動などの例を挙げていた。
自由と自己責任は表裏一体だ。
「誰もが完全に自由な」社会が存在したとして、それは本当に幸せな世界なんだろうか。
誰もが自分のためだけに生き、誰かに対する責任や共感や自己成長を一切放棄した世界。
弱者というのは特別なケアを必要として、一人では生きられないからこそ弱者なのだ。
その意味では私達誰もが弱者と言える。
誰もが弱いし、手が掛かる面倒な存在だ。
弱者をケアする責任を負うなんて面倒臭いことだから、「自由な」人間はやりたがらないだろう。
その時、愛という言葉は消えるんじゃないだろうか。
責任を女性だけに押し付けてきたから反発が起きたのは仕方がないことだと思う。そして今女性もケアの責任から解放されようとしている。
そうなると「女性の(親の)自由」を阻む子供なんて誰も産みたくなくなるのは当たり前だよね。
これは実存的な視点で見た少子化の原因で、リベラル派達にとっては女性の自由を阻むことになる(と思っている)この視点は都合が悪いからあまり目を向けたがらない。
たぶん、保守派の方が実存主義的なんだと思う。人間の利己的な面も見つめようとする。
都合が悪いからリベラルの方が人間の不条理な面を隠蔽しようとする。
だけど隠したところでなくならないから、抑圧から解放された(抑制が効かなくなった)自由な人間達による自己責任競争社会が拡がってきている。
きっとそれが、橘さんがリベラル化を「苛酷な」と表現する意味なのだろう。
確かに、自分の努力だけで今の自分が成り立っていると過信してる人間は冷たいよね。
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