石川五右衛門3世―但し直系ではない/五右衛門3世、登場④
おえんの話が気になったので、妙の部屋をのぞいてみることにした。
決してスケベ心からではない。第一、俺には、心の弥勒菩薩、如信尼様がいる。如信尼様のおひざ元で、不埒など働くわけがない。
椿寿院に来て半月経つというのに、妙は、まだ、離れにいた。
おえんの言う通り、本当に寝込んでしまっている。
「大丈夫かい、お妙さん」
声を掛けると、びくっとして目を開けた。
「宗十郎!」
叫ぶなり、飛び起きようとするから、俺は慌てた。
「俺だよ! 五右衛門だよ!」
「怖い! 宗十郎が帰ってきた!」
悲鳴をあげ、逃げようとする。
あわてて、その手を掴んだ。
「しっかりしろ、お妙さん! 宗十郎は死んだろ?」
「いや! 離して! あたしを殺さないで!」
「殺、いやいやいや」
「宗十郎! 宗十郎が、あたしを殺す!」
「しっ!」
思わず俺は前歯の隙間から、強く息を吐きだした。
「宗十郎はもう、死んでいる。それは、あんたが一番よく知っているだろ?」
途端に、妙の体が、しなしなと床の上に崩れ落ちてしまった。まるで、張り詰めていた糸が切れてしまったようだ。
「大丈夫だ。宗十郎にはもう、お前さんを傷つけることはできない」
言い聞かせるようにして、布団の中に押し込む。
お妙が、さめざめと泣きだした。
「あたしが……あたしが殺したんだ」
「お妙さんはただ、自分の身を守っただけだ」
優しさをありったけ動員して、お妙さんの耳元で、俺は囁いた。
◇
あの日。
椿寿院に逃げきた妙を、夫の宗十郎は追ってきた。
「俺は寂しいんだよ。おめえに置いて行かれて、なあ」
寺の離れに忍び込んだ宗十郎は言った。懐から、小刀を出す。
「女房に出ていかれて、俺は、恥をかいた。この落とし前はつけてもらわねえとなあ」
言葉が終わる前に、妙に襲い掛かってきた。
最初の一撃を、幸いにも、妙は躱すことができた。
寝床に、半分起き上がっていたおかげだ。
獲物を刺し損じ、宗十郎は激昂した。
四つん這いになって逃げようとする妙の髪を掴み、引き戻そうとする。
絶体絶命だった。
宗十郎にうつ伏せに組み敷かれ、妙は暴れた。長い髪は、後ろから握られたままだ。このままでは、喉笛を掻き切られてしまう。
うつ伏せではあったが、少し横向きの姿勢だった。両手は自由に使えた。対して宗十郎は、髪と小刀を握っている分、手が使えない。
渾身の力で、妙は、宗十郎を弾き飛ばした。
なおも捕まえようとする宗十郎と、もみ合いになった。
そして……。
ふいに、低い呻きが聞こえた。
妙の体に重くのしかかっていた宗十郎がくずれ落ち……。
騒ぎに気がつき、独歩が駆けつけた。
椿寿院で養育されながら、独歩は、寺男のような役をしている。この日も、わずかな畑の見回りからの帰りだった。
すぐに、独歩は、自分の手には負えないことを悟った。
賢明にも彼は、隣のあばら屋に住む俺を迎えに来た。
俺たちが、寺に向かった時には、すでに宗十郎はこと切れていた。
亡骸のそばには、妙が、呆然として立っていた。手にはまだ、血の付いた匕首を握ったままだった。
血まみれの遺体と、匕首を握った手をだらりと下げた女。
その時、独歩が言ったのだ。
「五右衛門。この死体は使える」
金倉屋から米を盗み出し、貧しい人々に分けてやるには、どうしたらいいか。
俺が捕まらずに、だ。
その方法を、考えていた時だった……。
幸い寺には、俺と独歩しかいなかった。
宗十郎の死体を使うことを思いついたのは、賢い独歩だった。
だが、この件に、如信尼様や、寺のみんなを巻き込むわけにはいかない。第一、俺が、かの有名な、五右衛門3世(直系ではない)ということは、如信尼様はじめ、世間には秘密なのだ。
妙にしたって、宗十郎を殺したことが露見したら、お白洲へ連れていかれるだろう。身を守る為に刺したとはいえ、宗十郎は、大きなお店の長男だ。婚家側が、どんな汚い手を使ってくるか、わかったものではない。
そもそも俺は、お上を信用していない。
だって俺、泥棒だし。
金倉屋に投げ込まれた死体は、宗十郎だ。投げ込んだのは勿論、俺と独歩だ。医者に化けて家移りさせ、無人となったところへ、米を盗みにはいった。
粥は、無事に、困っている人々に行き渡った。如信尼様に任せておけば、ここしばらくは、飢える人も出ない。
金倉屋が、隠しておいた米を盗まれたと騒ぎ出すこともなかろう。飢饉が続き、人々は、飢えている。上方からの援助米の買占め転売は、非道な行いだ。自ら名乗り出るわけがない。
そして、あと数日もすれば、次の援助米を乗せた船が、湊に入る。江戸の人々の食糧事情は、改善されるだろう。
問題は……。
「あたしが、宗十郎を殺したんだよう!」
せんべい布団の上で、身もだえして泣いている、このお妙である。
「いやいや、妙さん。あんたが殺らなければ、あんた自身が、殺られていたんだ。あんたは悪かねえよ」
初めから、宗十郎は、妙を殺すつもりだったのだ。さもなければ、あんなごつい匕首を持ってくるわけがない。
可愛さ余ってなんとか、ってやつだ。
だが、妙は泣き止まない。
「それによ。あいつも最後には、役に立ったんだし」
「あの人が、人さまのお役に?」
妙が顔を上げた。
泣きぬれた瞳で問いかけてくる。
「あっ、と……」
俺は声を呑んだ。
役に立ったのは死体だ、とは言えない。
俺が言い澱んでいると、妙は、一層激しく泣きだした。
「あんな乱暴な与太者が、人様のお役に立つわけがないじゃない! それなのにあたしのお腹の中には、あの人の子が……」
そうなのだ。
妙は、妊娠している。
自分が殺した夫、宗十郎の子を。
「いっそのこと、流しの産婆に……」
「それは危険だ。お妙さん、止めてくんな」
堕胎は、母体の危険を伴う。この件に関しては、如信尼様からも、きつく禁止されている。
「あたしは、宗十郎を殺した。この子は、人殺しの子なんだ……」
腹に手を置き、妙が身もだえる。
「いやいや。宗十郎も、あんたのことは、許してるって」
なにしろ、最初に妙を殺そうとしたのは、宗十郎だ。
返り討ちにあっても、文句を言えた筋ではない。
「だって、あの人は死んだんだろ? あたしが殺したんだ。あたしは、人殺しだよう!」
野太い声で吠える。
まるで、獣のようだ。
「どうしたの……あっ!」
障子を開けた独歩が、固まった。
「いーけないんだ、いけないんだ! 五右衛門が、お妙さんに手ぇ出した~」
変な節をつけて歌ってる。
「ちちち、違うよ! 手なんか出してねえ!」
俺はただ、なんとか彼女を黙らせようと、両手で口を塞いだだけなのだ。
でも、妙が布団に横になっていたおかげで、変な絵になってしまった……。
「宗十郎の一件を、如信尼様に知られたら大変だろうが!」
庵主様は、ご存じない。
自分が保護している妙が、夫宗十郎に殺されそうになったことも。
身を守ろうとして、反対に、宗十郎を死なせてしまったことも。
その死体を、俺たちが利用し、その結果が、山門の前に積まれた米俵だということも……。
◇
春の初めの、ひどく寒い夜。
妙の寝床に、おえんが、やってきた。
おえんは、寺で育てられている幼女である。身寄りがないらしい。
震えながらやってきた彼女は、一緒の床に入れてくれろと頼む。寒くて寒くて、眠れないという。
まるで、猫のようだ。妙が、子どもの頃に飼っていた猫も、こうやって、甘えてきたものだ。
幸せだった、少女の頃……。
ひどく懐かしく、妙は、女の子の願いを聞き入れた。
少し上げた掛布団の中に、子どもはするりと入り込んできた。
妙は、でも、知っていた。
この子は、自分の見張りだ。
昼間はいい。庵主さんか手伝いの女たちか、誰かしら、人の目がある。
だが、夜は……。
今夜のような寒さ厳しい夜は、生きているのが難しい。
庵主様は、妙が宗十郎を殺したことをご存じない。たくましい、手伝いの女たちもだ。
知っているのは、寺男の独歩と、寺の隣に住むという、あの、胡散臭い男だけ。
けれど、仏に仕える身には、何かしら、感じることがあったのかもしれない。
妙には、この女の子が、自分の床に入り込んでくるのは、庵主の采配のような気がしてならない。
夜のうちに、妙が、死んでしまわないように。
粗末な寝巻の帯で、首を吊ったりすることのないように。
女の子が寝床に来ても、妙は、構わなかった。
一晩か二晩、死ぬのが遅れても、何ほどのことでもない。
宵五ツ(午後8時)には、床に入っていた。この頃、本当によく眠る。ぐったりと、泥のように。
それなのに、真夜中、子の刻(午前0時)ほどになると、必ず、目が覚める。そして、眠れない時を、丑ノ刻(午前二時)頃まで、不眠を苦しみながら過ごすのだ。
あとは明け方、ようやく白みかけた空気を感じながら、うとうとするだけ……。
その晩も、妙は、計ったように深夜、目が覚めた。
途端に、苦しい今の境遇が脳裏に蘇る。
婚家での辛い日々。
夫宗十郎の暴力。
はじめは、優しい夫だった。それが一層、辛さに拍車をかける。だって、夫が暴力をふるうようになったのは、間違いなく、自分が至らないせいだから。
生傷の絶えない日々に、耐えきれなくなって、この寺に逃げ込み、そして……。
そして……。
宗十郎を殺した。
隣で、おえんが眠っていてくれてよかった。
熟睡する幼児からは、いい匂いがする。
紛れもない、命の匂いだ。
死にたい気持ちに、ほんの少しだけ、蓋をしてくれる……。
一度だけ、庵主様に打ち明けようとしたことがある。
だが、その穢れのないお顔を見ていると、何も言えなかった。彼女に自分の辛さをわかってもらうのは、到底、不可能だと悟った。
否、妙は、自分を守ったのだ。自分とお腹の子を。
だって、庵主様に告白すれば、自分は捉えられ、牢獄に入れられる。
そしたら、子どもは、どうなるのか。ちゃんと生まれるだろうか。
たとえ無事出産できたとして、その子は、牢獄で生まれることになる。
人殺しを母に持つのだ。しかも、その母が殺したのは、自分の父親だ。
到底、まともな人生を送れるとは思えない。
廊下で、咳払いが聞こえた。
「お妙」
低い男の声がする。
「お妙……」
「あんた?」
お妙の全身に震えが走った。
「そうだ。俺だよ」
「あんた……」
「今夜はお前に用があってな」
「あんた、ごめんなさい!」
皆まで言わせず、妙は飛び起きた。
眠っていたおえんが、ごろりと寝返りを打つ。むにゃむにゃと何かつぶやき、眠り続ける。
半身起き上がったまま、抑えた声で、妙は謝罪を続けた。
「悪い妻で、ごめんなさい。あんたに恥をかかせてごめんなさい。あんたを殺してしまって、ごめんなさい!」
「いやいや。お前は悪い妻なんかじゃなかったよ。お前は、最高の妻だった」
意外な言葉が、障子の向こうから返ってきた。
闇が、全てをすっぽりと包み込んでしまっている。
声を潜め、障子の向こうの宗十郎は続けた。
「死んだのだってな。俺は死んで、人様のお役に立てた。だから、お前に殺してもらってよかったのだ」
「でも!」
にわかには、信じられない。そんな妙の気持ちが伝わったのか。
「俺を信じろ。お前は、俺の言うことだけを信じていればいい」
それは確かに、生前の宗十郎の口調だった。
夢中になって、妙は問うた。
「あんた。あたしを許してくれるの?」
「許してもらわなければならないのは、俺の方だ。妙。お前に辛い思いをさせて悪かった。痛い思いをさせてしまって、本当に、申し訳ない」
「あんた……」
心の中で、冷たく凝り固まっていたものが、溶けていくのを感じた。
ゆるく溶け、それは、温かい涙となって、妙の両目から溢れ落ちた。
「この上はな。大変だろうが、頑張って、俺の子を産んでくれ。それだけが……」
その時、ぐっすり眠っていたおえんが、むっくりと起き上がった。
「おしっこ」
目をこすり、布団から抜け出そうとする。
「まあ、そういうことだ。とにかく、丈夫なややこを産んでくれ」
宗十郎の声に焦りが見えた気がした。
……この人は、私が赤子を堕胎しようとしたことを知っている……。
妙はそう思った。
死んだ人には、何でもお見通しなのだ。
彼は、自分が赤子を殺さないよう、説得に来た……。
その思いが、わずかに、妙の心の霧を払った。
子どもは、望まれて生まれてくるのだ。
妙の心が通じたのだろうか。障子の向こうの気配が、微かに揺らいだ。
「俺はもう、行かねばならぬ。達者で暮らせよ」
宗十郎が言い終わるなり、青白い光が、さあっと差し込んだ。
「!」
厠に行こうとしていたたおえんが、立ち止まった。
棒立ちになったまま、障子を見つめている。
青い光に、宗十郎の影が浮かんだ。やせぎすで、いなせな男の陰だ。
「ぎゃーーーーーーーっ! おばけーーーーーーーっ!」
静かな寺に、幼女の絶叫が轟いた。