石川五右衛門3世―但し直系ではない/贔屓の筋②
照り返しのきつい河原で一日働いて、それなのに、俺たちは、姿絵を買えなかった。
教えられた版元に行くと、たった今、最後の一枚が売り切れたところだという。
「えええーーーー、銭ならいくらでも出す!」
この際だから、俺は叫んだ。
俺と独歩、合せて、30文(約千円)しか持ち合わせがなかったのだが。
「残念だったねえ」
大して残念でもなさそうに、版元の蔓屋は言う。
「愛之助の役者絵は、刷ったばかりの頃はそうでもなかったけど、最後の一枚は、200文(5000円強)で売れたからねえ」
「えっ、そうなのか?」
いずれにしろ、俺たちの手には入らなかったのだ。
だが、いいことを聞いた。まだ、機会はある。
「また刷らないのか?」
次回、刷ってすぐ、来ればいいのだ。
だが、蔓屋は首を横に振った。
「売り切るまでに時間がかかるからねえ。役者の人気なんざ、水もんだからね。絶対売り切れるって保証もないし」
ようは、不良在庫を抱えたくないわけだ。
がっくりと肩を落とし、俺と独歩は寺へ帰った。
寺へ帰ると、やれ、足拭きだ、冷たい水だ、と、やけに扱いがいい。
いい気になって、つい、言ってしまった。
「今日、愛之助に会ったぜ」
実は、内緒にしておくつもりだったのだ。
だってもし、如信尼様が、あいつに会いたがったら? 俺は、顔つなぎをしなくちゃならない。
それはいやだ。
「……」
「……」
おえんと如信尼は顔を見合わせた。
「うそ」
「嘘なもんか。俺達と一緒に、草刈りをしてた」
「愛之助様が草刈りー!? 五右衛門なんかと一緒にー!?」
おえんが金切り声を上げる。
「こら! 『五右衛門なんか』、とはなんだ。それにな。職業に貴賤はないんだぞ」
「職業……。半時の手間仕事が、職業……」
独歩が遠い目をしている。
構わず、おえんが鼻を鳴らした。
「だって、ありえないもん!」
「ほんとだって。俺だって驚いたもん。なあ、独歩」
はっと独歩が我に返った。なぜか、むくれている。
「五右衛門。ウソは良くない」
「……」
あろうことか、独歩まで、俺を疑いの目で見ている。
そういえば……。
俺は思い出した。
休憩時間、独歩は、大の字になって寝ていた。休憩が終わると、愛之助は、再び、日焼け防止のほおかむりをした。
だから独歩は、草取り仲間が歌舞伎役者の愛之助だとは、最後まで気がつかなかったのだ。
「独歩の言う通りですよ。五右衛門殿、嘘はいけません」
如信尼様まで、咎めるような目を向けてくる。
俺はがっくりした。
「それで、約束のブツは?」
おえんが、がつがつと迫る。
「役者絵! 愛之助様の! 早く頂戴よ」
「買えなかった」
「え?」
「売り切れだって」
「……! ……? ……!?」
5歳女児の語彙力のありったけを用いて、おえんが俺を罵ろうとした時だった。
如信尼様が、うっとりするような笑みを浮かべた。
「仕方がないですね。ですが、五右衛門と独歩は、私たちの為に、一生懸命働いてくれたのです。入会地の草もきれいになって、近在の人たちも大喜びです。今夜は、2人の好きな天ぷらを奮発しましょう」
「如信尼様……」
俺は一生、この人について行こうと思った。
天ぷらが喰いたかったわけでは、決してない。
「やったーーー!」
単純な独歩は大喜びだった。
「手伝ってくれますか、独歩」
「はーーーーーい!」
独歩は仔犬のように如信尼につきまとい、二人して、厨へ消えていった。
「馬鹿? 馬鹿なの? あんたたち、馬鹿?」
残されたおえんが、俺に詰め寄った。
独歩が残っていたら、泣き出しそうな迫力だ。
だが、俺には何の心当たりもない。心外である。
「俺らには、馬にも鹿にも知り合いはいないぞ!」
「馬と鹿に謝れ! 五右衛門と友達になれるのは鳥頭だけ! 三歩歩いて、みんな忘れる」
さんざんな言われようである。
「あのなあ、」
「蔓屋に行ったんでしょ!」
おえんの口調に凄みが加わった。
「なんで、版木を盗んでこなかったのさ。泥棒でしょ、あんた」
「そうさ。俺は天下の義賊、石川五右衛門3世……、」
「義賊が聞いて呆れる。百歩、いや、千歩譲って、愛之助様の役者絵が手に入らなかったとしてもだよ。でも、だったらなんで、版木を盗んで来なかったのさ」
「版木……って、何?」
思わず質問してしまった。
そこがわからなくては、話にならない。
おえんは、盛大に鼻を鳴らした。
「役者絵の元だよ! 版木があれば、自分んちで、大量に刷れる。愛之助様の役者絵を……」
にわかにうっとりとした顔になった。5歳児とは思えぬ、妖しい目をしている。
「愛之助様の似姿を、お部屋中に貼るの。もちろん、如信尼様のお部屋にも。それから、そうよ! お寺のご本尊様のお顔も、愛之助様のお顔にするの!」
◇
「長治親分さん! 大変だ!」
蔓屋幾三郎は、番所に飛び込んだ。
「あっしの店の版木が、姿愛之助の版木が盗まれました!」
だが、誰も、蔓屋になど気がつかない。
番所内は、騒然としていた。
人が大勢出入りし、岡っ引きの長治親分の周りには、手下どもが集まっている。
「親分、大事件です! かの有名な大泥棒、石川五右衛門3世が、あっちの店の版木を盗んでいきやがりました!」
「ごちゃごちゃうるせえな」
手下の一人が振り返った。
「愛之助? 五右衛門3世? 誰だそりゃ」
「愛之助は、現在絶賛売り出し中の、有名看板役者ですよ!」
やや……というか、大分、盛って答える。ここにいる連中は、どうせ、芝居なんぞ観ないから、問題はない。
「五右衛門3世は……、えと……」
かの有名な石川五右衛門のなんかだろうとは、思っていた。
孫とか? ひ孫か。
だが、正面切って誰かと問われると、蔓屋には、答えられなかった。
蔓屋は、出版業を生業にしている。虚偽の流布は、職業倫理に反する。
「おお、知ってるぜ」
意外なことに、長治親分が顔を上げた。
「この春に、あちこちの長屋の上から、小判をばらまいたやつだ」
「ああ、あれか!」
手下の一人、蛭の与吉が手を打った。
「小判を使おうとしたやつらを、かたっぱしからお縄にしてやった一件の! そういや、あいつら、異口同音に、なんとか3世に貰ったって、言ってたな」
「五右衛門3世」
蔓屋が繰り返す。
与吉は大きく頷いた。
「おお、それそれ、五右衛門3世。だがよ。貧乏人が貧乏人に小判を施すたあ、面妖な話だぜ」
「怪しい奴であることは確かだな」
長治親分が頷く。
「そいつに、あっしの店の版木が盗まれたんでさあ。ゆうべ、寝ている間に」
ようやく話が元に戻り、蔓屋はほっとした。
長治親分が立ち上がった。
「あいわかった。蔓屋、あんたの話は、後で聞く」
「え? 後で?」
蔓屋は呆然とした。
証拠保全ということで、店の中はそのままにしてある。
岡っ引きの親分さんの検分が、身近に見られる滅多にない機会だ。店には、絵師を待たせてある。
何事も、ただでは済まさないのが、版元だ。
「悪いが、川から仏が上がってな。今はそいつで手いっぺえだ。居空きだけなら、急ぐことはあるめえ。戸締りをきちんとして、また、夕刻にでも来てくんな」
*
土左衛門は、女だった。
身に着けていた高価な着物から、すぐに身元が分かった。
小栗杢左エ門の妻女、お藤である。
結婚して3年。子がなく、その上、夫婦仲も良くなかった。
小栗家は、武士の家柄だ。
跡継ぎが欲しい杢左エ門は、近く、離縁の意思があった。
……「お藤は、入水自殺したのではないか……」
知らせを聞いて、真っ先に杢左エ門は、そう、口にしたという。
「親分。長治親分!」
医者の天寿庵が呼んでいる。
死体の検分が済んだようだ。
川から上げられた死体は、手下どもの手で、川べりの小屋まで運び込まれていた。
「ほらほら、もちっと近く寄って」
長治が近づいていくと、天寿庵は言った。彼自身は、むしろにおかれた死体の上に、殆ど覆いかぶさるようにして、覗き込んでいる。
「まだ、壊相まではいっておらぬから、臭くはなかろう?」
言ってるそばから、ぷんと、泥の臭いが立ち上る。この医者は、鼻が悪いのかと、長治は思った。
ちなみに、壊相というのは、人の体が、その死から灰になるまでを、9つの段階に分け、そのうちの2番目のことである。
腐乱が進み、皮膚が壊れ始めた状態だ。
毎度のように天寿庵の講義を聞き、長治はすっかり覚えこまされてしまっている。
涼しい顔で、医者は続けた。
「今はまだ、腸相じゃな。9相の最初の段階だ。即ち、腸に腐った気が溜まった状態である」
「死の最初の状態ですね? するってえと、死後どのくらいでしょう?」
「うーん、この陽気だからの。3日から5日というところかな」
「3日から5日……」
「うむ。さっきも言った通り、臭気は未だ体内にとどまっている。だがもし、お前さんが、今この場で腑分けしてほしいと言うなら……」
「いえ、ご遠慮致します」
即座に、長治は断った。
この医者のやりたいようにさせていたら、この先、一ヶ月は、飯が喉を通らないだろう。
「なんじゃ。意気地がないのう」
天寿庵は、明らかに失望したようだった。
「このホトケは、まだ、女人の相を保っておるではないか。青鬼になるのは、もう半日くらい、先であろう」
「ホトケが、青鬼に? 世も末じゃないですか」
思わず軽口を、長治は叩いた。
天寿庵が、にやりとわらった。
「ほら。腹が青くなり始めているだろう? これがやがて、全身に広がり、また、腐敗した気がいよいよ溜まって、体全体が膨れ上がる。即ち、青鬼じゃ」
「で、死因なんですが。やっぱり、溺死ですか? するってえと、自殺? 他殺?」
長治は尋ねた。
講義を途中で遮られ、明らかに、天寿庵はむっとしたようだった。
「まだ、先がある。赤鬼と黒鬼の話は聞きたくないか?」
「だいたい、想像がつきます……」
天寿庵はため息を吐いた。
「長治親分。おぬしとの付き合いは、長くなり過ぎた気がする……」
「実は、天寿庵先生。小栗家から、お藤は自殺したのではないか、と言ってきてるんですよ」
委細構わず、長治は続けた。
天寿庵に付き合っていると、話が進まない。
「自殺? 馬鹿言え」
口の悪い医者が、悪態をつく。
「これが自殺であるもんか。親分、ここを見てごらん。この、喉の……」
遠慮なく指し示す指の先に、長治は目を向けた。
お藤の喉には、傷があった。
大きな刃物で、ざっくり切られた、大きな傷だ。
「これは……」
長治は息を飲んだ。
「手下どもは、何も言ってなかったのに」
「やつら、土座衛門には経験がないと見えるな」
にやりと、天寿庵は笑った。
「ホトケを、川べりのこの小屋に運び込むだけで、精いっぱいだったとみえる」
「あとで、叱っておきましょう」
「いや、無理もないぞ」
どういうわけか、手下どもへの慈悲の心を、天寿庵は発揮した。
「なにせ、通常より膨れた死体だからな。とっくの昔に血も止まっていて、着物は濃い色だ。生前ならいざしらず、そもそも、じっくり見つめたいシロモノじゃないし。あんたの手下どもが気がつかなくても、無理はなかろうよ」
「あれ?」
得意げな天寿庵の傍らで、長治はつぶやいた。
「帯に何か挟まってる」
「草じゃな」
一緒に覗き込み、天寿庵がつぶやいた。
「ま、たいしたことじゃあるまいて。それより、儂の見立ては聞きたくないか?」
「聞きたいです、もちろん!」
さっきから聞いてるのに、あんたがもったいぶって話をそらしまくってるんじゃないか。
心の中で毒づきつつ、長治は力いっぱい頷いた。