石川五右衛門3世―但し直系ではない/贔屓の筋①
下から聞こえる物音に、蔓屋幾三郎は、はっと目を覚ました。
かすかな、ひっかくような音を、確かに聞いた。
気のせいかと思った。
明け方にはまだ早い。もうひと眠りしようと思った。だが、どうしても寝付けない。
思い切って起き上がった。
水でも飲んでこようと思ったのだ。
家の者を起こさぬよう、抜き足差し足で、階段を下りる。
廊下の端に置いてある水甕の水を汲み、柄杓から直接飲み干した。
厠に寄り、ふと、店を覗いてみようと思い立った。
蔓屋は、版元だ。
しかし、抱えている作家は、どれも力がなく、たいした儲けにはならなかった。店には、金もろくにおいてない。
というか、そろそろ一発当てないと、屋台骨が危ない。
そういう状況ではあるが、まあ、起きてしまったついでだ。店は、母屋とくっついている。
幾三郎は、表通りに面した店舗部分に首を突っ込んだ。
暗い中、店内は、夕刻に閉めたまま、閑散としていた。売り物の読み本には布がかけられ、たったひとつ、店の飾りの錦絵もそのままだ。
……盗まれるようなものなどないからな。
安堵して寝床に戻ろうとしたその時……。
作業場の、小さな雨戸が一枚、外されていることに気がついた。
差し込む月の光が、一枚の白い紙を照らし出す。
紙には、勢いのある字で、こう書かれていた。
「五右衛門3世参上。
姿愛之助が役者絵の 版木、頂戴仕る」
◇
発端はもちろん、おえんだった。
「五右衛門は言った。なんでもいうこと、聞くって!」
「……」
あれは、春まだ寒い夜のことだった。
俺と独歩は、ちょっとした為事をしていた。
もちろん、歴とした義によってだ。男には、時には、どうしても。やらねばならないことがある。(※前章「五右衛門3世、登場」参照)
それを、おえんに見られてしまった。
なにしろ、男二人の、真剣勝負だ。おえんは、すっかり怯えてしまった。
そして、おねしょ……じゃなくて、布団にお漏らしをしてしまい、本人曰く、「大恥をかかされた」。
だから。
……「五右衛門は、あたしの言うことを、何でも聞かなくちゃいけないんだ!」
まあね。
おえんを怯えさせちまったのは事実だし。
でも、わざとじゃないんだ。
あのタイミングで起きてくるとは思わなかったんだ……。
「如信尼様も、そうしてもらえって!」
これは、殺し文句だった。
俺は、麗しの庵主、如信尼様には逆らえない。
舎弟(と認め合ったわけではないが)の独歩もだ。
そういうわけで、俺と独歩は、蒸し蒸しする初夏の日、大汗かいて、村の入会地の草刈りに精を出した。
つまり、手っ取り早くわかりやすく、金が必要だったわけ。
「愛之助様の絵!」
5歳の幼女は喚きたてた。
「姿愛之助様の姿絵が欲しい!」
「愛之助?」
聞いたことのない名前だった。
「愛之助様!」
すかさずおえんが訂正を食らわせる。なんだって、知らない野郎を、「様」付けで呼ばなければならないんだ?
「で、誰それ?」
「五右衛門、殺す!」
「うっわ。ひどくね? つか、誰よ、愛之助って」
「……役者」
おえんが言うには、二枚目看板役者だという。
「聞いたことないねえ」
独歩が首をかしげる。
俺は、不調法者だ。歌舞伎芝居なんぞ、とんとわからねえ。
だが、物知りな独歩が知らないんじゃ、大した役者じゃあるまい。
「ははあ。大部屋の大根か」
「ぐ、」
おえんの顔色が変わった。
「ばかばかばか!」
5歳幼女が、連呼して喚きたてる。
「愛之助様は、天下の二枚目! 日の本一の男前! なの!」
「日の本一の男前は、俺だろ?」
やっとのことで、俺は、真実を口にした。
返事は、ひどいものだった。
「馬鹿、死ね、五右衛門!」
「うっわ。ひっど」
「へえ。おえんのコレなわけ?」
それまで高みの見物を決め込んでた独歩が、にやにやして、小指を立てた。
途端に、逆襲の矛先が変わった。
「ばかーーーーーーっ! 独歩なんて、死んじゃえーーーーーっ!」
極めて語彙の少ない5歳女児、渾身の悪態である。
それなのに、独歩の心に深く深く突き刺さったようである。
独歩は泣き出した。
「うわあ。おえん、ひどいーーーーーっ!」
この少年は、図体はでかいが、精神年齢がめちゃめちゃ低いのだ。
「うえーーーん」
「うわーーーーん」
二人そろっての愁嘆場に、俺は思わず、耳を塞いだ。
「二人とも、静かにしろ! 耳が潰れるだろ。つか、独歩、おえん相手に、その小指の使い方、間違ってる……」
なんとか子ども二人を宥めようとしたのだが、二人そろって、一向に、収まらない。
ぎゃーぎゃー、わーわーと、うるさいったらない。
「お前らなあ。いくら墓場の横の一軒家ったって、限度ってものがあるだろう? 死人が起きちまうだろうが」
これも躾だ。
将来こいつらが、市中の長屋に暮らすようになった場合、大騒ぎをしたら隣人町内に迷惑がかかる。下手をすると嫌われて村八分になりかねない。他生の縁で知り合った二人の未来を考え、俺が、説教を始めた時だった。
「何事です? 大騒ぎして」
あばら家の前に、麗しい観音様が……。
「如信尼様」
「いったい何を騒いでいるのですか? 本堂まで聞こえましたよ?」
「如信尼様! 五右衛門がひどいんです!」
泣きながら、おえんが訴える。
「えっ、俺? いや、俺は何もしてないぞ?」
「した!」
「してない!」
「五右衛門は、極悪人!」
「いったいどうしたのです、おえん」
優しく如信尼様が問いただす。
「五右衛門は、愛之助さまのことを、大根役者だって言った! 大部屋の大根だって!」
「大根ならまだ、煮付けりゃ食えるが、大根役者は、クソの役にもたちゃしねえ」
好いた女性(仏の遣いだけど)の前で、他の男をこきおろすのは、気持ちのいいものだ。
「……」
沈黙が落ちた。
慈母のようだった如信尼様の表情が固まっている。
「五右衛門さん。あなた、間違ってます」
一言、落ちてきた。
氷のような声だった。
◇
つまり、あれだ。
如信尼様とおえんは、姿愛之助という役者の、熱烈な贔屓だった。
独歩のいうように、愛之助は、大した役者じゃない。はっきりいえば、三文役者だ。大根という俺の評も、決して、的外れではない。
「つまり、それは伸びしろです」
だが、大真面目な顔をして、如信尼様はのたまった。
「人気は、おいおい追い付いてきます。私たちが出待ち入り待ち、お布施をすることによって。私とおえんの目は確かです。愛之助様は、きっと大化けします。いずれにしろ、あのお方の悪口をいうことは、許しません」
「いや、如信尼様。尼僧として、それ、どうなんですか……」
思わず俺がつぶやくと、如信尼は、ぽっと頬を赤らめた。
「愛之助様は、東寺の帝釈天によく似ておいでです。仏もきっと、お許しになるかと」
「……はあ」
「私も、愛之助様の役者絵が欲しい……」
おえんだけだったらほっといたのだが、如信尼様までが贔屓の筋となれば、そうもいかない。
彼女らの欲しがる愛之助の姿絵とやらを、なんとか、手に入れなければならない。
幸い、役者絵が売られているという。
だが、刷り部数が少ないせいで、非常な高値がついていた。
刷り部数が少ないのは、つまり、これは売れない、と、版元が見込んだせいだ。大量生産なら、もちっと、安くなるはずだ。
なんにしろ、愛之助の役者絵は高価だった。
俺らには、金が必要だった。
つまり、俺と独歩には。
時は、雑草に命みなぎる梅雨直前。
ちょうど、入会地に草刈りが入る時期だ。
俺と独歩は、この仕事を請け負い、川べりの草刈りに精を出している、と、そういうわけだ。
◇
「へえ。そんなことが」
あまりの暑さに、木陰で小休止に入った時のことだった。喉を潤し、汗を拭っていると、隣で休んでいた男が言った。
この男、まだ若い。選べば、いくらでもましな仕事があったろうに。
照り返しのきつい河原の草刈りは、重労働だ。そのくせ、手間賃は、驚くほど安い。
おまけに、刈っているのは、萱だ。鋭い葉先で、手や足、あちこち切り傷ができてしまう。
聞けばこの男、数日前にも、萱刈りに参加しているという。なるほど、川沿いの部分はきれいになっていた。刈り取られた萱は束ねられ、干されている。屋根を葺くのに使うのだ。
だが、道に近い部分は草ぼうぼうだった。
つまり、ここが、俺らの担当分なわけだが。
わずかに、けもの道のような細い筋が、川べりまでつけられている。前回の作業者たちは、この細い筋を辿って、作業場所の川べりまで往復したという。
ちなみに、前回、川べりで草を刈った奴らは、残りの作業を拒否した。
唯一の例外が、この男だという。
抜けた奴らの穴埋めに雇われたのが、俺と独歩だというわけだ。
「で、誰なんです、その役者って」
「きっと知らねえよ。有名な役者じゃないもん」
ぶちぶちと、俺はつぶやいた。
「知ってるか? 姿愛之助って」
「へえ。光栄だな」
「ん?」
俺は思わず、相手の男を見た。
少し離れたところで、独歩が、大の字にバテているのが目の端に映った。
「それ、俺です。歌舞伎役者の愛之助」
「なんだって!」
「そんな風に、尼さんや、小さな女の子に贔屓がいるなんて。思ってもみなかった」
「美人の尼さんだ」
「なら、なおさらです」
美人だと教えてしまったことを、俺は、軽く後悔した。
だってもし、こいつが本気を出したら……。
いやいやいや。
如信尼様ともあろうお方が、歌舞伎役者ごときに、妙な入れ揚げ方をするとは思えない。
うっすらと愛之助は笑った。
「俺、全然売れなくて」
「だから、こんな川原で草刈りを?」
「ええ。役者じゃとても喰ってけませんから」
愛之助が言うには、それでも、歌舞伎優先で、片手間仕事をしているという。
だが、片手間の賃稼ぎでは、思うような仕事に就けない。結果、このような照り返しのきつい河原で草刈りをする羽目になったんだそうだ。
ぶーんと、蠅が一匹、飛んできた。迷わず、愛之助の鎌にたかる。
手拭いを振り、愛之助は、それを追い払った。
そういえばこいつ、仕事の間は、ずっと、手拭いで、顔を覆っていた。男のくせに、変なやつだと思ったが、あれは、日焼けを防いでいたのか……。
向こうの木陰で、独歩が起き上がった。ぼんやりと、こちらを見ている。
休み時間も終わりだ。
誰に聞かせるともなく、俺はつぶやいた。
「大変だな。売れない役者も」
「好きな仕事ですから」
すがすがしい笑顔で、愛之助は笑った。
俺はちょっぴり、この男が好きになった。
基本的に、自分以外の二枚目は嫌いなのだが。
午後になってすぐ、人足達が来た。
長年に亘り手入れを怠った(まあ、気持ちはわかる)せいで、ついに屋根が落ちた家があったそうな。それで、急ぎ、萱が必要になったのだという。
人足達は、既に干されていた萱を運び去っていった。もっと風通しのよい丘の上で、干し直すのだ。
俺たちが刈った萱も、束ねるそばから、持ち去っていく。
炎天下の中、人足達に追いまくられて、草刈りを続けた。